2017年2月27日月曜日

最終兵器のミサ 藤氏家伝ってゆう本をもっと見たい

トウシカデンってゆう本をはじめから読んでくと、オカモト天皇が死んだから奥さんが天皇になったと書いて、アトノオカモト天皇になったって書いてあるけど???アトノオカモト天皇はサイメイ天皇、まあよし
そして、万葉集って有名な歌の本の歌のマエセツにアマトヨシゲヒタラシヒメ(サイメイ天皇)の後にアトノオカモト天皇がついたってかいてあるんよ???まあよし
でも、万葉集のマエセツは日本書紀ができたあとにできたみたいで、もしかしたらトウシカデンとおんなじ見方かもしれないんだとすると、アマヨロズトヨヒ天皇がアトノオカモト天皇ってことになるんだよ、またまた・・・、ゆるしてよってきこえそう。
だって、このアマヨロズトヨヒ天皇のに有名なイッシの変がおこるんよねぇ、そして、トウシカデンにはこの天皇のときと書いてあるけど、この天皇の4年だからエトがイッシじゃないよて言われそうだけど、クーデターを起こすときにイッシの変だぁってサケんでタタカうわけないねぇ。
イッシの変はあとからつけたんだものね、日本書紀を書いたときに順に前にさかのぼっていったらイッシの時になったんじゃないんでもって、日本書紀の664年5月にある本に「5月にソガムラジオオオミが死んだ」って書いてあるんだけどなんで5月にわざわざ5月って書くの、実は5月じゃなくって6月なんじゃない、だって、イッシの変は6月に起こっていて、ソガイルカオオオミを殺しちゃったんじゃ。
お偉い先生たちはこの日本書紀に出てくるオオオミを日本書紀に一度も出てこないソガムラジコって人だといっているんだよ、そりゃそうだ、イルカはずっと前に殺されているんだものね、習ったレキシでは、でも、先代旧事本紀ってゆう本に(ソガ)イルカムラジって出てくるんよね。
でも、こう考えるとおかしなことがまたいっぱい出てくるんだからこまっちゃう、新唐書って本にハクチっていう年号を作ったコウトク天皇がいてすぐに死んじゃったって書いてあるんだこのコウトク天皇ってハクチって年号ができて5年まだ生きてるよってことは、この年号をつくったコウトク天皇ってやっぱりアマヨロズトヨヒ天皇じゃなくって664年に生きていたほうってことで創った年号は白鳳で・・・、でも、テンチ天皇もカマタリさんもだいぶ若返っちゃってしめしめだけどね。
イッシの変の時はテンチ天皇19歳、カマタリさんは28歳でフヒトさんは23歳の時の子供って、カマタリさんって好きもんだなぁって思ってたけどごめんなさいって誤っている場合じゃないよ、カマタリさんが692年まで生きていて、すると、その2年あとにテンチ天皇って死ぬってことは694年まで生きることになるじゃ、そぉら、仏さんのジョウソウのこともばっちり合うじゃん。
またまた、えぇっだよ、そうするとイッシの変どころかジンシンの乱も695年に起こったことになっちゃうし、710年までテンム天皇が生きてるよぉ、そぉらほころびがでてきた、710年てヘイジョウ京に都をうつした時で、テンム天皇の年号はその前の709年まで

2017年2月25日土曜日

最終兵器のミサ 藤氏家伝(トウシカデン)ってゆう本もちょっと見てみたい

トウシカデンってゆうのはフジワラという家柄のはじめのころのとっても偉い人たちの話なんだけど、ふしぎなことにフヒトさんのとこだけ削られちゃってすごいいやがらせ。
その本にカマタリってゆう超有名なお人がイッチャンサイショに書いてあるんだけど、とってもふしぎで、ハクホウ5年にアマヨロズトヨヒ天皇が亡くなって、コウソボがもう一度即位して政治を皇太子にまかせて、13年天皇が亡くなったってかいてある???、ハクホウってハクチの間違い?、サイメイ天皇って7年までだよ、この本も間違いだらけかよ。
でもちょっと待った、またひねくれもんがうだうだいちゃもんつけるよ。
この本って日本書紀ができてからフジワラさんが書いたん、日本書紀とツノツキあわせて書いたはずだよねぇ、変なこと書いたら赤っ恥もんだ
でも、白鳳も13年も違うんだとゆうことは白鳳と13年があっているんじゃないの、だって、日本書紀はビミョウにおかしいもんね。
いいたいことは、661年まで13年間サイメイ天皇は天皇の位についていた、白鳳X年を白雉5年に変えて日本書紀にあわせたてゆうこと。
アマヨロズトヨヒ天皇が白鳳X年コウソボが天皇の位についたんだから、前に書いたチュウグウて天皇だよね、そぉらまたすごいことになってきたぞぉ、なんで、テンチ天皇は662年から668年までセッショウだったの、最後の3年はチュウグウ天皇の病気、665年は中国の王様に会いに行っていて日本にいなかったけど、662年から664年は?
もしかしてだけど、664年に中国人のカクムソウさんが人をいっぱい連れてやってきていて、戦いにならないように連絡してきてからやってきたみたいなんだけど、連絡したからって敵がやってくるんだから普通はイミないよねぇ、だけど戦っていないってゆうことは、ここにアマヨロズトヨヒ天皇が乗っていた、662年から664年まで朝鮮や中国で戦っていた、捕まっていたんじゃないの、まぁ、テンチ天皇が摂政のときはアマヨロズトヨヒ天皇は日本を治めることができなかったってゆうこと。
そんで、サイメイ天皇は649年から天皇だったてゆうこと、えぇ~、またぁ、もう勝手に歴史でもなんでもスキカッテに創ってよって言われちゃいそうだけど、ほかの人たちはしょっぱなから藤氏家伝をうたがっちゃって、見なかったことにしてるんだよ、これっておかしくない
それにまだまだ大変なことを言い出すんだからこんなことで驚いてちゃダメダメ。

2017年2月23日木曜日

最終兵器のミサ 古事記のマエセツと続日本紀

701年にタイヘンなことがおこったっていうあかしはなぁにっていわれそうだからこれも続日本紀ってゆう日本書紀のあとのセイシキなレキシの本と古事記のマエセツで調べちゃった。
古事記のマエセツにアスカキヨミハラの天皇が支配しているとき、アスカキヨミハラ天皇がじっと潜んでいたんだけど、天皇の位を奪っちゃって、この奪っちゃった天皇は、中国の王様の家柄のイシズエをキヅいたと言っているんよ???。
自分が天皇のときに天皇の位を奪ったんだけどまだ子分だったなんてわけわかんないよねぇ。
ようは、テンム天皇がアスカキヨミハラで日本を治めていたんだけど、モンム天皇がずっと潜んでいて、ある日天皇の位を奪っちゃった、しかも、まっとうに奪わなかったからカンペキな天皇じゃないよってこと、いわゆるクーデターってゆうこと。
そのあかしはあるのって言われそうだけど、続日本紀に701年1月にフジワラフヒトは10番目の地位だったんだけど、3月になぜか急に5番目の地位にトクシンってゆうやつ、アワタマヒトってゆう人も1月は11番目だったのが翌年8番目、その他701年7月にジンシンのオンショウって書いてあるけどたくさんの人がホウビをもらっているんだ。
わかるよねぇ、フジワラフヒトってゆう人がこの事件を考えジッコウしたひとで、ワワタノマヒトが協力者で、フヒトさんはモンム天皇の奥さんでショウム天皇の母の父ってわけ。
そりゃぁゲンメイ天皇一家はフヒトさんに足を向けて寝れないから、フジワラ家を超ユウグウ、エコヒイキしちゃって、これよりあとず~っとフジワラのイエガラの世の中、天皇よりすごいひとになっちゃった。
それで、モンム天皇の前の天皇は次の年に死んだようで、703年次のセイトウな天皇が即位して、ジトウ天皇は天皇のシルシの印鑑を持っていると日本書紀にかいてあるんだ
そして、日本書紀に書いてあるジンシンのオンショウもひょっとしたらこの701年のオンショウかも知れないよね、だってどうやら2代ずれていそうなんだもねぇ、そで、ジンシンの乱が無かった??ってゆうことだもねぇ、ほんと、オットロシイこと考えるねぇ、モンカ省におっこられるぞぉ

2017年2月21日火曜日

最終兵器のミサ 日本書紀があやしい

前回で2代ずれてるって言っちゃったけど、なんかあかしがあるって言われそうだから調べちゃった。
まず、船王とゆうひとの墓にいろいろ書いてあって、この人ビダツ天皇(572~585年)のときに生まれて641年のジョメイ天皇(アスカ天皇)のとき死んだ?ジョメイ天皇ってオカモト天皇のはずだけど、しかもこの文は668年に書いてあるんよおっかしいもしかしてジョメイ天皇がスイコ天皇?、それにつけ加えて、56~69歳で死んだようだけどそのあと28年も奥さんが生きておったそうだけど、なんでかヨウメイ天皇は小さい時だし短いからふれてないのかなぁ、でもこの時代はみんなナガイキで若い奥さんをもらっていたんだねぇ。
日本書紀をつくったトネリ親王(735年死亡)はジュンニン天皇(733年生)父で、テンム天皇(686年死亡で父ジョメイ天皇は641年死亡)の子で偉い人なのだけど、ジュンニン天皇が生まれたのが58歳、本人もテンム天皇40歳以上の生まれかなぁとおもえる。
ジュンニン天皇の2代うしろのコウニン天皇は709年生まれで、父はシキ皇子でテンチ天皇の子でテンチ天皇が671年に死んでいるのでシキ皇子は少なくとも50代の子がコウニン天皇だとおもうん
フジワラフヒトも見てみると、フヒトはフジワラカマタリが46歳のとき659年生まれで不比等の最高齢の子が41歳に生まれているけど、なんか、みんな現代みたいにコウレイシュッサンだよねぇ。
このころは50歳まで生きてりゃオンノジの時代で、さらに暗殺も多くてちょっと考えられないよね。
そして、692年に671年の年で死んだテンチ天皇のためにカクムソウがつくったホトケ様を20年以上ほってあったので「上送(ジョウソウ)」させているんだけど、どうして20年も九州に?、テンチ天皇て滋賀県にいたよね、九州に放っておいたからゴリヤクが無くって死んじゃったのかなぁ、それとも死んじゃったから九州に持ってちゃったのぉ?、なんでぇ
ジョウソウって坊さんも送っているからすぐに送っているんだよ、法要のためだったら九州にテンチ天皇をマツっているから九州にあるんだったら九州ですりゃいいんじゃねぇ、そうじゃなくってテンチ天皇が病気だもんで、お友達のカクムソウさんがホトケさんをつくって坊さんと一緒に滋賀県に送ったんとちゃいますかぁ
さらに、フジワラの宮に都をうつしているんだけど、続日本紀というモンム天皇から書いてある歴史書があるんだけど704年にフジワラの宮にうつしたと書いてあるんだ??、また、え・えぇ・えぇどうゆうことぉ!だよね。
古事記のマエセツを読むとゲンメイ天皇が王様の家柄の初代になった中国の王様より立派だって言ってるだよね、初代の王様になったから古事記をテイシュツしますって、713年にテイシュツするって書いてるんだよね。
でぇ、ジトウ天皇は天皇なのに子分のジトウ天皇は天皇の位を皇太子におゆずりしますって、おっかしいよねぇ、皇太子って孫なんだよね。
ようは、ゲンメイ天皇はモンム天皇のアトを受け継いだけどまだ本当の王様じゃなくって、713年子分にナリサガったジトウ天皇から本当は奪っちゃったんじゃない。
701年には2つの王のイエガラがあって、モンム天皇は実力は天皇だったんで、タイホウとゆう年号をはじめたり、中国に日本ってゆう国をはじめたよって認めさせたりしたんだけど、天皇のシルシが手元になっくってセイシキな天皇じゃなかったってゆうこと。
まったまた、学校で習ったのとちがうよぉってコエがここまでひびいてきそぉ。

2017年2月19日日曜日

最終兵器のミサ 『新唐書』ふたたび

新唐書にはさらにおっかしいよちゅう文があって、ヨウメイ天皇がメタリシヒコって書いてあるんだけど、ショウトク太子のまちがいと偉い先生たちが気に入らないから言っているんだけど、また、ヒネクレもんがフツフツわいてきちゃった。
ショウトク太子っていえばスイコ天皇の皇太子だからそんなこと言われてもこまっちゃうんだよね、でも、ちょうど新唐書はあてにならんという人ばっかだからだぁ~れも気にしやしない。
でも、ここにひねくれもんがいて、おもしろい人を見つけちゃったんだけど、それがスカテヒメとゆうヨウメイ天皇のお嬢ちゃんで、37年間伊勢神宮のサイオウになったんだけど、ふつうサイオウは天皇が変わると交代するんだけど、なぜか三代の天皇にまたがってついているんだ??。
そうゆうばあいなんかわけをかきそうだけどかいていなくてとってもふしぎだけど、日本書紀の天皇ってちょっとおかしいからもうちょっと考えてみると、隋書ではタリシヒコは男で奥さんがいて太子はリカミタフリ??、スイコ天皇って女性で太子はウマヤド、ぜんぜんちゃうよねぇ。
まあ、名前にかんしてはずっとあとから書くけど、新唐書が書くようにヨウメイ天皇のほうがスイコ天皇とするよりつじつまが合いそうだよね。
そんで、法隆寺の仏さんに法興31年西暦621年にウエミヤ法皇(天皇?がお坊さんになった)と母親と奥さんが亡くなったとかいてあるけど、どうやら、この天皇はこの時ホウコウ天皇?(隋書にはオオキミと言われている)と呼ばれていて、天皇について31年たっている?、えぇ、隋書に書いてあるのは607年でこの天皇だよね。
自分の国の彫刻にもちがう天皇の名前がでてきてしまったじゃない、やっぱ日本書紀は嘘っぱちじゃんてきこえてきそうだけど、前にも言ったように嘘っぱちにするわけが見つからないから、それこそ、名前をかくしたわけがあるはず、どうせ作るなら、チョウコクしたとうりに書けばいいねぇ。
ただ、このヨウメイ天皇が天皇じゃなくオオキミだったことがきになるよねぇ、だって、朝鮮の本には531年の記事に日本の天皇ってでてくるんだよ。
まあ、ここでは天皇名があやしくって、もしかしたら2代ずれてるんじゃねぇてゆうこと、え・えぇ、うっそぉ、おかしなことゆんじゃねぇよって聞こえてきそう

2017年2月16日木曜日

最終兵器のミサ 『新唐書』は間違いだらけ?

前前回は新唐書は間違っていないと言っちゃったけど、きっと突っ込みがでるにきまっていて、それは、天皇の名前が違うやら、親子関係がちがうなんてね。
でも、天皇の名前は日本書紀も違うかもしれないから名前はずっとあとから説明するけど、親子関係はたしかにおかしぃよね。
おかぃところを見てみると、キンメイの孫スイコ()、コウトクの子アマトヨタカラ(兄弟)、テンチの子テンム(兄弟)、テンムの子ソウジ()、モンムの子アヨウ(母または兄弟)、アヨウの子ショウム(甥またはまご)だ。
中国はテンチはよく知っていて、というのは、日本に来たカクムソウという中国のヤクニンと親密にあっていて病気が治るように祈って仏像まで送っているんだから知らないはずがない。
日本書紀は人んちの本を使っているんだから、まだみんなに言っていないけど考え直さなきゃいけないんだなぁ。(じつは考え直すと親子でよいみたいで詳しくは何回か後のミサで)
すると、中国は女帝のとこだけ間違えているんだ、ンッ、フツウの国はアトトリムスコがいるのに親や姉妹につがせるなんてないよね、アトトリムスコに継がせてまわりの人たちが助ければいいじゃんってゆうとおもうし、世の中には天皇を辞めないでセッショウというコトバをきくけど、そういうやり方があるじゃんて中国は信じ込んじゃう。
まちがっちゃうにはちゃんとワケがあるはずで、日本書紀はどうやらイエガラがかわっていてそれを隠したがっているようだし、中国はなんも嘘をつくリユウがないけど、自分たちが知らないとこがあるから日本に聞くけど、日本人は日本書紀の内容をこたえるはずだよねぇ、日本書紀がまだないときは中国の資料に日本人のはなしをきくけど、ものすごくうたがっていると書いているんだ。
ふむふむ、っと、日本書紀とちがうとこは中国のシリョウじゃん、そうすと、「アマトヨタカラ」と名前を知っているってゆうことは中国の王様と会っているからホンミョウを書いたんじゃないの、中国の王様と日本の王様が会ったのは665年だけなんだ?、またまたオカシなことになってきたぞぉ。
じつは、このときの天皇の名が誰も言わないけどわかっていて、野中寺ていう大阪にある寺の仏さんに書いてあって、チュウグウ天皇っていって、666年にヤマイが治るように仏さんをつくったとかいてあるし、たしかにテンチ天皇はこのときセッショウと書いて天皇の代理で天皇が即位するまえはコウソボ(天皇の母だけど前の天皇の奥さんじゃない)が天皇をやっていたとかいてあるし、テンム天皇のときの680年にチュウグウの病が治らないので薬師寺をタてたよとかいて、チュウグウはダジョウ天皇(引退した天皇)だと書いてある???。
テンム天皇はわかんないけど、テンチ天皇は46歳で671年に死んでるけど母が8年たってもまだ生きていて86歳でまだ死んでない???。
テンチ天皇の母って661年に死んだはず、ンッン~。
そうだ、偉い先生方とおんなじでテキトウに作ったことにしておこうかって、それはイケナイよね、だって日本書紀よりまえに作られたのが日本書紀に合わないからまちがいなんていえないよねぇ。
じゃあ、661年に死んだのはテンチ天皇の母じゃなかったちゅうこと、じゃっだれ?、おっ・おっつぉろしい話。

2017年2月14日火曜日

最終兵器のミサ 『古事記』って?2

新唐書の話の前に古事記ってどんな本かもう少し見てみるね。
古事記は神様の部分はオオクニヌシが主役で、前に書いたように神話以外はアマテラスオオミカミは付け足しだけどそれでもいっぱい書いてあって日本書紀ととっても似ているよね。
ジンム天皇は奈良県の南に攻め込むんだけど、日本書紀と古事記では来る道がちがっていて、古事記は宮崎県から大分県そして福岡県そして広島県、奈良県で日本書紀は福岡県から広島県、奈良県???、なんでわざわざ福岡県によるの、大分県から広島県に行けばいいじゃん。
古事記でジンム天皇にはまたの名前がワカミケヌ、トヨミケヌ、カムヤマトイワレヒコと3つもあってなんでぇ、天皇は名前なんていらず1つでいいはずで、セケンサマはイミナとまことしやかにいうけど、ほかの天皇にはこんなにたくさんの名前はないよねぇ。
だいたい昔から2つ名前があるのは悪人がおおくていいひとは仏のなんとかべぇぐらいのはずで、この3つの名前は3つのイエガラの人が書き換えたんじゃないの、だって建国した人なんだからみんな知らないはずがないもんね。
だから、最初の家柄の人が書いたワカミケヌの名前を次に書いた人がトヨミケヌの家柄の人が付け加えて、最後はゲンメイ天皇の家柄の人がつけたしたんじゃないのぉ、そら、いちゃもんつけたトヨの家柄の人。
ちゅうことは、トヨの家柄の人は福岡の人が書いた本を使ったと考えるのが普通だよねぇ、って、なんで福岡の人の建国を奈良でするのぉ?、こう考えられないかなぁ、福岡の人も違う人の本を使っちゃった、盗作だぁ、じゃぁだれの、そう広島の人が最後だから、福岡の人はオオクニヌシの子分だったからオオクニヌシの子分のオオが付くオオモノヌシという広島の人で、あとから、奈良の人が奈良を奪ったんだけど、誰から奪ったというと、オオモノヌシの子孫の娘さんを嫁にしているんだよ。
だから、福岡の人の借用した本を使って古事記を書いたっちゅうことで、最後に福岡のことが書いてあるのがジングウ皇后までだから、ジングウ皇后より後はトヨすなわち大分の人たちが書いたっちゅうことよ。
だから、どうみても奈良の話なんだけど、自分たちは大分の話としているんだよきっと、だって、地名なんて同じような名前がどこにもあるんだから、王様が地名を変えちぁえばいいんだから。
そんで、オウジン天皇のとき宇治の近辺に攻め込んで奈良も自分のものだけど、攻め込んだ話は広島のオオモノヌシのは・な・しで、福岡の人たちはもちろん福岡に、大分の人たちは大分に攻め込んだはず、だって、関係ない奈良に攻め込んでも建国できないもんね。
じゃぁ、日向は?もしかしたらゲンメイ天皇?、違うと思うよ、だってゲンメイ天皇のイエガラは大分の人たちよりふるそうだし、福岡の人が最初にオオクニヌシから譲ってもらったのがイト国だったからイトの日向から出発したんだけど、大分の人にとって日向は今の宮崎だとゆうことで、宮崎を占領してから古事記はつられたっちゅうこと。
ってことは、福岡の人や大分の人ってどこに入ったのって言われそうだから、ちょっとだけ言っとくけど、昔から、王様の先祖はコウソ、最初の王様はタイソってゆんだけど、伊都にコウソ神社とタイソ神社、福岡市のトナリの糟屋郡ってとこにもタイソ神社があってジングウ皇后がいたカシイグウってお宮さんがあって、もう一つ福岡県のミヤコ郡ってとこにもタイソ神社があって、ここってむかしは大分の昔の名前のトヨってゆう地域だったんだ。