2025年7月2日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 序

  「新しい古代の神話」では、住む場所の宮を神の代理人が居る場と考え、地名が神、交流することで、地名を付加していった。また、地名は人々の移動によって運ばれた。地名が神、人々は埋葬された墓所を「し」と呼んで、その土地の人々を「氏」と呼んだようだ。「しかばね」は死んだ神が埋められた場に建てた木が根と言う意味だと考えられる。

『山海經』にあるように、日本人の国と考えられる、海外の東西南北經の52、海内の南・東經の34、大荒の東・南經の68の計154、但し重複する国があるので140位の人種が集まったのが日本人と考えられた。『漢書』にも「分為百餘國」と記述され、弥生期でも百以上の言語(方言)を話す人々が存在したと考えられる。

日本人のY遺伝子の構成から、日本人には周辺国に無い遺伝子が存在し、6.8から3.9万年前頃にアフリカを出発した人々が中国や日本に住み着き、その後、3.5万年以降にアフリカを出発した人々が後から遣って来て、日本列島の先住民と混血し、辺地に追いやったようだ。それらの多数の種族の人々の言語も神を「ま・け・み・き・ち」などと呼んで、其々、独自の言葉(方言)を話していたようだ。

移動生活では土器は邪魔だったが、日本に来た人々は土器を発明して定住し、舟を発明して黒曜石などを交易した。日本人は交易で交流するため、身振り手振りや擬態や擬音に声を載せて意思疎通しただろう。そして、交易範囲が拡大する毎に言葉が付加される膠着語の日本語が生まれた。また、其々の神を葬った木の根()・墓標がある土地の人々を纏めて死んだ神の「氏・主」と呼んだのだろう。「新しい古代の神話」では、その土地に繋がる氏族を検証した。

定住した日本人は舟による交易を行ったが、海は季節によって海流や風向きが変わり、また、日本は四季があるので、それに合った作業が必要だったと考えられる。それには、作業カレンダーが必要で、日本人は暦を理解した。『真実の古代』は暦という記録を考えてみたい。

2025年6月30日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 まとめ2

古代は末弟が継承すると主張するが、伊邪本和氣→水齒別→男淺津間若子、穴穗→大長谷と兄から即位している。伊邪本和氣・水齒別の在位年数は6年と5年で、兄弟の年齢差とすれば妥当である。

立太子は意味が無く、史書は皇后が決まってから太子を記述しているように、皇后の子が次の天皇になっている。そして、男子が100年後の天皇なのだから、100年間は皇后の娘が皇后の名を継承し、婿を迎えて皇位を継承すれば、皇后の()子が天皇だ。そして、娘が生まれないと、男子が他家へ婿に、または、分家の娘が皇后の名を継承し、婿を迎えれば継承される。

皇后が余曾多本毘賣になった時、余曾多本毘賣の兄の子の数代の國押人が婿に入り皇太子になる。皇后に娘が居ないとき、いつも迎えていた國押人が他家に婿入りして、婿入り先の宮で皇位を継承する。これが、合理的な継承方法だろう。皇后の男子は皇后の兄弟の婿に入って奧津余曾を襲名し、その子も次の太子の國押人である。

そして、王家を形成する人々は、人名を地名や役職名使って名前にした。同じ名前の人物は、同じ家系と考えるのが合理的だ。他家の人物が同名を使うのは、自らのアイデンティティーを捨てることになる。逆に、移住する時は、そのアイデンティティーを持って、地名を持って移住する。

このような原則に立って、神話集である『古事記』を分析した。日子坐のように多くの妃を記述するが、開化朝から崇神朝の120年の間に、何代もの意祁都比賣の子の日子坐が存在し、婿入りして分家を設けたと考えれば理に適う。

120年間あれば、親子の年齢差が20歳とすれば、6・7代の日子坐が存在する。そして、日子坐には4柱(4家)の妃が存在し、80年間、4代の天皇の分家の日子坐が存在したと考えられる。そして、1・2代の日子坐は2・3代の皇后の父だろう。妃の家系の権力を高めるためには、日子坐ブランドは利用価値が高い。

2025年6月27日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 まとめ1

『古事記』には年代や暦の日干支が記述されないため、いつの出来事か特定できない。従って、歴史とは言えないが、親子関係を詳細に語っている。しかし、親子関係は『日本書紀』で解るように、一世代が百年、親子で孝昭・孝安など百八十五年も国を治めている。これを、一部の歴史家はまじめに親子だと考えている不思議な生き物たちである。

しかし、常識的に考えれば、孝昭家から孝安家に政権が遷ったと帰結する。93歳で崩じた前天皇を継いだ子の天皇が123歳まで102年間皇位に就いていたなど有り得ない。孝昭天皇六八年に「立日本足彦國押人尊皇太子年廿」と20歳で太子になって、15年後に21歳で即位など、計算が合わない。

この年齢は異なる意味を持ち、間違いだからと無視はできない。いい加減だと言って、無視して即位期間の平均で1代20年程度とするのは、論理的ではない。20年は親子の年齢差に過ぎない。「太子年廿」は最後の孝昭天皇の太子が婿入りした年齢、93歳は葛城掖上宮が続いた年数と考えた。

もしも、太子の居ない68年間に天皇が崩じたら、皇位継承争いで王朝崩壊するだろう。神武天皇は神沼河耳を太子にしたが、神沼河耳には日子八井・神八井の兄も共に當藝志美美を倒そうと立ち上がり、頼りない兄に替わって即位した。立太子は全く無意味だった。私は立太子が九州倭国の王朝交代と考えた。

478年雄略二二年に「白髮皇子爲皇太子」と記述されるが、翌478年昇明二年に興の弟の武が安東大將軍倭國王を叙された。434年允恭二三年に「立木梨輕皇子爲太子」と記述されるが、「賛死立弟彌」と弟への王朝交代があり、「文帝元嘉十五年夏四月己巳以倭國王珍為安東將軍」と438年に叙された。賛は430年に遣使し、「贊死立弟彌、彌死立子濟濟死立子興、興死立弟武」と記述されるように、弟への王朝交代はこの2回である。弟が即位するというのは、皇后が異なる分家が即位することを意味する。

2025年6月25日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 大倭國造2 

  大和國造の祖は鸕鷀草葺不合の弟の武位起で、『舊事本紀』に「椎根津彦命爲大倭國造即大和直祖」とあるように、武位起が曲浦の王の祖で、紀伊名草姫の子の大御氣主が大倭國の民磯姫を妃にして生まれた阿田賀田須が丸迩君の祖、曲浦の王になった。

民磯姫は卑弥呼の別名の夏磯媛と同じく、熊襲の一員の壹襲(壹国)の姫で、但馬の姫なのだろう。孝安天皇の子の建斗禾の娘が民磯姫と考えられ、建宇那比が大海宿禰(大倭國王)()弟が建手和迩なので、大御氣主が大海宿禰の妹の民磯姫の婿なのだろう。建手丸迩と民磯姫は紀伊國造智名曽の妹の中名草姫の子と義子、大御氣主は紀伊名草姫の子なので、従兄妹同士の婚姻である。

大御氣主は「拘奴國」を倭國の東から南に追い遣り、子が曲浦や丸津の王で丸迩君の祖と呼ばれたと考えられる。宇豆比古が釣りをしていた浦や神功皇后が新羅に出発した丸津は丸や曲の文字を使うのだから、形状から神功皇后がいた橿日宮の海岸か筑紫の宇佐へ向かった関門海峡が有力である。

迩君は多遲摩國造の祖の大多牟坂、すなわち纏向大連・比布禮大臣の多遅麻と考えられ、娘の弟日賣眞若比賣の婿は曾都毘古の子の葦田宿禰・若野毛二俣だった。葦田宿禰は丸迩臣の許碁登であり、大倭國造は吾子篭で、吾子篭は「吾子篭遣於韓國而未還」とあるように、韓国に出向いたままだった。呼び返したのは兄の麻呂、同じように「襲津彦久之不還」と加羅に出向いたままの曾都毘古と重なり、迎えに行ったのは木菟宿禰(平群氏)と的戸田宿禰(丸迩臣の祖)であった。

兄弟は葦田宿禰と的戸田宿禰で、葦田宿禰は曾都毘古と共に加羅に行っていて、的戸田宿禰は倭直(淡海)の祖、葦田宿禰は倭(淡海)直だ。首都が河内の丹比に遷った時、丸迩の許碁登・葦田宿禰が大倭國造に賜姓されたようだ。丸迩佐都紀臣は深目・意富富杼で、その娘が袁杼比賣・童女君・春日大郎女と考えられる。春日大郎女は倭直の跡取り娘なので、倭比賣が相応しく、袁杼比賣を継承したと考えられる。その婿が袁本杼、すなわち、巨勢男人だろう。そして、倭国に勝利して、九州の倭国は俀国と名を変え、男人の娘婿の仲国王と考えられる広国押建金日が倭国王となった。

2025年6月23日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 大倭國造1 

  倭國造の祖は槁根津日子で、吉備から日下の蓼津に向かう途中の速吸門を進む水先案内を行った国神であり、宇豆比古は木國造の祖である。しかし、『日本書紀』と『舊事本紀』は珍彦が倭國造であり、珍彦は曲浦の漁師で椎根津彦の名を貰う、筑紫國菟狹へ向かう海導者である。

すなわち、木國造の祖の宇豆比古が曲浦の王であり、宇豆比古の協力で「拘奴國」を攻めた。そして、屋主忍武雄心がその娘の山下影媛を妃に紀武内宿祢が生まれた。そして、宇豆比古の子の紀伊国造の宇豆彦道彦男が大荒田の婿と考えられる建忍山垂根で、二代目武内宿禰の若帯日子が生まれる。宇豆比古の跡取りが槁根津日子を賜姓され、九州の倭國造、すなわち、『後漢書』の大倭王なのだろう。

倭直の祖は麻呂、倭直は吾子篭であり、倭國造の祖は比香賀君だ。比香賀君は君だから、倭直を賜姓されている。履中天皇と考えられる稚櫻柴垣二宮大連の伊莒弗の義父、すなわち、黒比賣の父であり弟比賣の父の葦田宿禰、すなわち、丸迩臣許碁登である。許碁登のもう一人の娘は都怒郎女で、その娘の都夫良郎女の婿が紀角宿祢だろう。武内宿祢と宇乃媛の子の紀角宿祢が圓大臣で、娘が韓媛、婿が雄略天皇の一人の平群真鳥大臣である。

すなわち、倭國造の祖は比香賀君、天皇の伊莒弗は稚櫻と柴垣宮の大連・天皇で、伊耶本和気と水歯別は兄弟ではなく矛盾する。ところが、伊耶本和気と水歯別の義父は共通の葦田宿禰なので、葦田宿禰が伊莒弗、伊耶本和気が倭國造の祖の比香賀君ならば相応しい。多遅麻の妃は世代的に五琴彦ではなく同名の五十功彦と弟媛との娘の安媛(弟媛)で、その娘の香兒媛は弟比賣眞若比賣、夫は若野毛二俣・葦田宿禰である。

伊耶本和気の子の市邊忍齒別の子の意祁は大和の石上の廣高宮天皇、すなわち、大和國の王である。清寧伊波禮甕栗宮天皇には子が無く、飯豐・忍海郎女が皇后だったと考えられる。皇后も居ないのに、子が無いことを嘆くのは奇異である。子も妃も無かったのは武烈天皇に敗れた鮪臣なのだろう。

2025年6月20日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 忌部と凡河内國造

  大印岐が大國の領主の印岐という氏姓と考えられる。同じ用法の凡河内忌寸が『舊事本紀』に「凡河内國造即凡河内忌寸祖」と記述される。凡河内國造は凡河内忌寸の祖と同等とするが、他の國造を忌寸と記述せず、祖はその人物、若しくは次代の賜姓を意味することが多い。すなわち、天武朝の忌寸なら遠祖なので、忌寸の祖は凡河内國造が忌寸(印岐)と呼ばれたことを意味する。

師木王の太玉(大国王・大縣主)が大印岐、河内の大縣主が凡河内の印岐である。その凡河内國造()の祖は伊勢神宮と考えられる御上神社に祀られる丹波道主の祖母の天之御影である。これで、忌部・伊勢國造・凡河内國造が繋がった。

最初に記述される凡河内國造の祖は天津日子根、すなわち、彦根が印国(国=岐)と考えられる。遠津待根の母は阿遅鍬高彦根の妹の天照大神と思われる下光照比賣(高比賣)と考えられる。すなわち、下光照比賣を祭祀する娘の遠津待根が阿遅鍬高彦根を受け継ぐ彦根の女王である。

下光照比賣の夫は天津国玉の子の若日子、すなわち、天津日子根の末裔の天津国玉が大津の国王の太玉(布刀玉)で、下照比賣が大宮賣、天照大神を引き継ぐ比賣、大宮賣の娘が遠津待根、若日子が櫛磐間戸、阿遅鍬高彦根が豐磐間戸と考えられる。

遠津待根の子孫が天之御影で、天照大神の意思の代弁者である。高御産巣日が見る人物名と大国主が見る人物名、その神話を併せた世界である。

阿遅鍬高彦根を受け継いだのが饒速日である。阿遅鍬高彦根の本来の後継者の奈賀命は隠岐王(食国王)、饒速日の義兄は那賀須泥毘古(奈賀州根彦)とされ、偶然ではないだろう。隠岐の政大夫の饒速日は高御産巣日の子の天富の子の登美の御炊屋姫を妃に足尼の地位を得、それを子の宇摩志麻治に与えた。

遠津待根を祀る足尼の宇摩志麻治、師木縣主の彦湯支も足尼、子の浮穴宮朝の大祢、婿が出石心大臣・和知都美である。和知都美の娘の蝿伊呂杼の婿は出雲大臣の子の三見宿祢と考えられ、三見宿祢は秋津嶋朝の足尼になっている。三見の子の大綜杵が堺原宮の大祢(?大峯大尼・武建大尼)、建胆心大祢(屋主忍武雄心)、十市根の父の大根と続く。

大根は子の十市根と同一視、義兄弟の三野の八坂入日子とも同一視される。八坂入日子は伊勢麻績君と考えられ、伊勢神麻績連の祖である。八坂入日子の妃は天照大神を祀る遠津(息長)氏の娘の豐鍬入姫で、御上神社で天照大神を祀ったのだろう。

2025年6月18日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 伊勢國造

  『舊事本紀』によると、天照大神を祀る国の国王の伊勢國造は橿原朝に粟の忌部首の祖の天日鷲が賜姓された。粟は勿論、淡海のことであるが、奇妙な記述、「伊勢國造即伊賀伊勢國造祖」とある。伊勢國造になったのに、伊勢國造の祖は矛盾しているので、後の現代の三重県の伊勢の國造の祖を意味すると考えられる。

現代の伊勢神宮の王だった人物は孝徳天皇が国造を賜姓しているので、665年頃に伊勢神宮は遷ったと考えられ、蘇我馬子大臣の頃の伊勢は御上山にあった。天照大神を祀る伊勢皇大神宮が有るのに、管理する国が伊勢国ではない、また、伊勢皇大神宮が無いのに伊勢国というのは奇異である。ただし、三重の伊勢国の前に、伊賀伊勢國造なので、伊賀が伊勢国だった可能性もあり、天武朝の時に分けているので、再度、遷った可能性がある。すなわち、日鷲は伊勢遺跡の国造で、そして、日鷲は忌部首の祖なので、忌部首の祖の天太玉の後裔である。太玉は大国王を示している。太玉の娘の大宮売は天照大神の傍に仕え、豐と櫛の磐間戸兄弟は門番、御門()を守る、天照大神を支える人物だ。櫛磐間戸は天照国照彦天火明櫛玉饒速日の可能性が高い。

その太玉の名を引き継ぐ人物の娘の鴨姫を妃にするのが2代目膽咋の高穴穂大臣、鴨姫の父は建部君の祖の大荒田と考えられた。鴨縣主の祖は櫛玉、すなわち、この、天太玉のことのようだ。玉姫の父なのだから、太玉は相応しく、玉姫の婿は大印岐の孫の建稲種なので、大荒田の妃も大印岐の娘の可能性が高い。

志紀縣主の祖の印岐美(忌君)は建稲種と思われ、忌部と印岐は職制の部と領地の国と名が異なるだけで、指し示すものは同じ意味に近く、伊勢國造を継承した人物と考えられる。大根が大印岐、娘の兄比賣の婿の大荒田(大碓)、姉妹の弟比賣の婿の伊勢麻績君の子の大筒木眞若という師木・高穴穂朝廷の関係図である。