2025年6月16日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 お天道様と天照大神

  天照大神を祀る天皇家にとって、尾張氏がその祖と言える。尾張氏は木国造との姻戚関係が、権威の始まりと言って良い。師木水垣宮天皇と考えられる丹波比古多多須道主の娘の豐鋤入日賣は、豐鋤入日賣の祖母の息長水依比賣を祀った。豐鋤入日賣は水依比賣の母の天之御影が祝ふる御上山の神の天照大神を託されたのである。そして、沼名木之入日賣(佐波遲比賣)が大國魂を託されて、尾張氏が分裂したのだから、それ以前は皇后が託されていたと考えられる。沼名木之入日賣は豐木入日子の妃、八坂之入日子の義姉妹で大和神社を創建した。

豐鋤入日賣の母の遠津年魚目目微比賣は木国草津の姫と考えられ、丹波比古多多須道主は丹波大縣主の姫の竹野比賣の子で、木国に婿入りした。すなわち、息長水依比賣は多多須道主の母ではなく義母と思われ、遠津年魚目目微比賣が息長水依比賣と解る。遠津氏と息長氏は同じ氏族を指し、迦迩米雷と丹波の遠津臣の娘の高材比賣との子は息長宿禰で息長氏だ。

豐鋤入日賣は木国の入()の比賣で、曾祖母が祝ふる御上宮を託されたと考えられる。遠津氏は天狹霧の娘の遠津待根が起源で、天照大神は狹霧とともに跡取りの姫を生んでいる。その天照大神を豐鋤入日賣が託された。

一方、伊邪那美・伊邪那岐が最初に生んだ神の一柱に木国の大屋毘古(五十猛)が存在し、大屋毘古を祀ったのが天道尼()の孫である。尾張氏は天道日女の末裔で、尾張連の姓を最初に記述されたのが尾治弟彦だ。弟彦は八坂之入日子の子の大筒木眞若が始まりで、八坂之入日子が豐鋤入日賣の夫で、伊勢神麻績連の祖の伊勢麻績君である。

すなわち、この頃の伊勢皇大神宮は御上神社だったことが解る。御上神社は孝霊天皇の時に創建され、繩伊呂泥・意富夜麻登久迩阿禮比賣が祀られ、夜麻登登母母曾毘賣が繩伊呂泥を祀った。繩伊呂泥の父の和知都美が開いた淡道御井宮朝はこの御上神社を祀る入町にあったと思われ、景行朝に出現する伊勢の綺(かむはた)宮の可能性が高い。綺戸邊は布多遲能伊理毘賣の母なので伊勢の入()の姫の母に当たる。

2025年6月13日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 天皇大倭根子3

  足尼の宇摩志麻治は政大夫も兼ね、食国王の配下が政大夫で、大津の根国王を兼ねたようだ。綏靖朝では彦湯支が大津の根国王の足尼と政大夫を兼ね、師木の片鹽浮穴(草津市に片岡町・穴村町がある)を首都にして安寧天皇となった。懿徳朝では皇位を出雲醜大臣に奪われ、根国は大祢が「奉齋大神」とあるように、王になった。

大神は大国の神、元々大津にあった日吉大社の気比社と考えられ、気比社が宇迦能山の石根と考えられる。その後、三見と出石心が皇位を争い、根国を支配する足尼は一般の宿祢・王となり、劔根の孫の忍鹿比賣の子と考えられる葛木氏の大諸見(?大吉備諸進)が足尼となった。大神は気比から御上神社に権力が遷り、天照大神を祀ったのが大諸見足尼、神子の天皇は大倭根子である。

しかし、孝元朝に大綜杵が神と同等の大祢、政務を司る天皇が大倭根子だったのが、開化朝では分裂した。すなわち、内色許男の娘婿の武建と大峯が大祢、天皇は大臣の比古布都押之信と若倭根子となった。そして、崇神朝に建膽心が大祢(大根・伊理泥)となり、大国の神は御上神社の天照大神と大和神社の大國魂神の分裂状態、二王朝が続いた。

大根は子の十市根が天皇になって穴太足尼、婿の大碓の子が建忍山垂根と継承し、末裔が山代の山背根子、平群の眞根子、そして河内の長江の難波根子と継承した。建忍山垂根の義子の武内宿禰、その子の襲津彦に関連した地域である。

『日本書紀』は小碓を「一書云」で稚倭根子と記述し、稚倭根子を八坂入日女の子にしているのは、太子小碓が(十市)根の婿なのだから根子と考えているのだろう。そして、難波根子の婿と考えられる圓大臣、その娘の韓比賣と婿の大長谷若建との子の白髪が伊波禮甕栗宮の天皇が大倭根子の名を引き継いでいる。

大化二年・696年に唐から独立し、由緒ある天皇の「明神御宇日本倭根子」・「明神御大八洲日本根子」を天武天皇が襲名していたとした。そして、翌年の697年に成人した文武天皇が現御神大八嶋國所知倭根子を宣言したと考えられる。中臣(藤原)氏が熊襲の政権から皇位を取り戻した。

2025年6月11日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 天皇大倭根子2

  『伊未自由来記』に宇津志の奈賀は出雲から来て、美豆別之主と取って替わったと記述される。出雲は島根県ではなく若狭湾の出雲である。美豆別之主には幾多の部の民が配下にいたとされ、その中に久米物部も存在し、久米部は美豆別之主を祖神として祀った。『舊事本紀』に、高御産巣日と共に天降った物部氏(物部造の祖の天津麻良・築紫弦田物部の祖の天津赤星)には天物部達の二十五部が存在した。その中に久米物部を含み、この久米物部の首領の天津麻良の後裔に饒速日が存在したのだろう。奈賀の国()は於佐神が建国した土地、長門の須佐出身と考えられる流宮の加須屋大海祇の子と考えられる。

隠岐王は、宇都須山祇が加須屋大海祇の協力を得た宇津志の奈賀なので、大津の王と考えられる宇都須山祇(宇都志國玉)の子のようだ。根国の奈賀皇子、那賀須泥毘古はピタリと合致する名前だ。そして、天富の祖と関係が有りそうな、國忍富は八国野洲の姫と考えられる八河江比賣を妃にし、生まれた子は速甕之多氣佐波夜遲奴美と甕の人物、御炊屋姫も甕師木八姫と考えられる甕の姫である。

天富は『舊事本紀』「天富命於安房地之大玉命社謂安房社」とあるように、太玉を祀る神社()を安房に建てた。その神社が根国の宇迦能山本の底津石根に宮柱をもつ宮殿と考えられる。そして、子が宇都志の奈賀、宇都須山祇の後継の姫の婿が太玉の子と考えられる阿治志貴高日子根である。

阿治志貴高日子根は下照比賣の義兄、大国主(太玉)の子である。同じく宇都須山祇の分家の御炊屋姫で婿が饒速日、宇都志の奈賀の妃が阿治志貴高日子根の妹の丹波の須津姫である。丹波が現代の丹波か琵琶湖東岸の「たには」なのか不明である。

天若日子の妃の阿治志貴高日子根の伊呂妹の下光比賣は御上神社に祀られたと考えられる天照大神となる。天若日子は天津國玉の子とされるが、婿と考えられ、父は加須屋大海祇と考えられる。隠岐(食国)王になった那賀須泥毘古は妹の御炊屋姫の子の宇摩志麻治を大津の根を支配する足尼に賜姓して、政大夫とした。

すなわち、足尼というのは、食国に代わって根(国神)を治める(たらす)人物で、神武朝の時の足尼は宇摩志麻治だった。神を治める足尼と統治する尼の一人である神武天皇(鞴五十鈴)の傍で実際に統治するのが政大夫である。「衣冠帶劍」の君子国の神武天皇と「冠帶」の周饒国の隠岐だ。

2025年6月9日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 天皇大倭根子1

「根子」の「ね」の最初の記述は豐秋津島が根別だとの記述である。豊国の安芸が根国の分国だと述べている。天一根は恐らく宇摩志阿斯訶備比古遲の出身地で、天比登都柱と対と考えられ、その後、根国は「妣國根之堅洲國」と記述された。五島列島の女島・天一根から遣ってきて、壱岐を岩根に建てた柱と考え、壱岐を起点に国を生んだ。阿斯訶備比古遲は子ではないことにした淡嶋近江の伊邪那岐の王朝がその説話を奪った。それは、隠岐から近江に入って来たと考えられる。

父が多賀の出身なのだから、母も同じ近江、堅洲国は堅田のことだろう。そして、天照大神が生んだことになっているが、実際は狹霧から生まれた天子の根国王、それが凡川内國造の祖の天津日子根や活津日子根なのだろう。宇都志國玉(国王)を大国主と呼び、根国の宇迦能山本の底津石根に宮柱を建てた。宇津氏の王は宇治川の津氏(氏は嶋の「シ」)の意味だろう。そこの女王は狹霧の娘の遠津待根の可能性が高い。

宇都志國玉は大津の國玉、すなわち、天津國玉を意味する。天津日子根の子孫が淡海の忌部の祖の伊勢國造の天日鷲(天照大神を祀る日輪氏)、太玉は活津日子根なのだろうか。事代主の妃が活玉依(玉櫛)姫で、太玉と活津が無関係とは思えない。多紀理毘賣を妃にした太玉(大国主)の子は大宮賣と豊磐間戸と櫛磐間戸、櫛磐間戸は天日方奇日方を生む事代主、豊磐間戸が建御名方、大宮賣が下光比賣だろうか。『舊事本紀』に「娶大國玉神女下照姫」と記述され、下照姫は『古事記』「大國主神之女下照比賣」と大國主の娘なので、大國玉は大国主(太玉)である。

忌部の祖の太玉を祀る神社を安房に立てた天富、勿論、太玉の神社なのだから、安房は淡海の「あは」である。天富は忌部を含む諸齋部を率いて神武天皇の即位に協力した、忌部の上位者で饒速日の義兄の登美能那賀須泥毘古と考えられる。諸齋部の中に物部が含まれ、()富の那賀須泥毘古の妹が御炊屋姫だから、そして、那賀須泥毘古が食国王だから、食国王の妹の子の宇摩志麻治が政大夫になれた。

2025年6月6日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 天皇根子1

  「根子」の「ね」の最初の記述は豐秋津島が根別だとの記述である。豊国の安芸が根国の分国だと述べている。天一根は恐らく宇摩志阿斯訶備比古遲の出身地で、天比登都柱と対と考えられ、その後、根国は「妣國根之堅洲國」と記述された。五島列島の女島・天一根から遣ってきて、壱岐を岩根に建てた柱と考え、壱岐を起点に国を生んだ。阿斯訶備比古遲は子ではないことにした淡嶋近江の伊邪那岐の王朝がその説話を奪った。それは、隠岐から近江に入って来たと考えられる。

父が多賀の出身なのだから、母も同じ近江、堅洲国は堅田のことだろう。そして、天照大神が生んだことになっているが、実際は狹霧から生まれた天子の根国王、それが凡川内國造の祖の天津日子根や活津日子根なのだろう。宇都志國玉(国王)を大国主と呼び、根国の宇迦能山本の底津石根に宮柱を建てた。宇津氏の王は宇治川の津氏(氏は嶋の「シ」)の意味だろう。そこの女王は狹霧の娘の遠津待根の可能性が高い。

宇都志國玉は大津の國玉、すなわち、天津國玉を意味する。天津日子根の子孫が淡海の忌部の祖の伊勢國造の天日鷲(天照大神を祀る日輪氏)、太玉は活津日子根なのだろうか。事代主の妃が活玉依(玉櫛)姫で、太玉と活津が無関係とは思えない。多紀理毘賣を妃にした太玉(大国主)の子は大宮賣と豊磐間戸と櫛磐間戸、櫛磐間戸は天日方奇日方を生む事代主、豊磐間戸が建御名方、大宮賣が下光比賣だろうか。『舊事本紀』に「娶大國玉神女下照姫」と記述され、下照姫は『古事記』「大國主神之女下照比賣」と大國主の娘なので、大國玉は大国主(太玉)である。

忌部の祖の太玉を祀る神社を安房に立てた天富、勿論、太玉の神社なのだから、安房は淡海の「あは」である。天富は忌部を含む諸齋部を率いて神武天皇の即位に協力した、忌部の上位者で饒速日の義兄の登美能那賀須泥毘古と考えられる。諸齋部の中に物部が含まれ、()富の那賀須泥毘古の妹が御炊屋姫だから、そして、那賀須泥毘古が食国王だから、食国王の妹の子の宇摩志麻治が政大夫になれた。

2025年6月4日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話52 女国

  品陀眞若の娘の飯野眞黒比賣は須賣伊呂大中日子を生んだ。天皇は宇遲能和紀郎子で正月辛丑朔のある歳は309年、比布禮大臣の子の印葉が大臣・天皇になった。すなわち、印葉が矢河枝比賣を妃にした人物で、丸迩臣に政権を奪取された。

印葉は多遅麻の子なので五十功彦に当たり、妃は弟比賣である。弟比賣の娘の弟比賣眞若比賣の夫は若野毛二俣で忍坂大中津比賣を生む。しかし、忍坂大中津比賣を生むもう一人の迦具漏比賣が存在する。

息長眞若中比賣の姉の飯野眞黒比賣の子が須賣伊呂大中日子(額田大中日子)を生む。そして須賣伊呂大中日子の妃が迦具漏比賣で忍坂大中津比賣を生むが、忍坂大中津比賣の父は若野毛二俣である。従って、忍坂大中津比賣の夫の男淺津間若子が迦具漏比賣の子、忍坂大中津比賣は義子、迦具漏比賣は石之日賣と解る。

『古事記』では大雀が427年丁卯の歳の八月十五日に崩じたが、『舊事本紀』も「歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」と同じ崩御日に記述される。『梁書』に宋大明二年458年記事に「流通佛法經像」、『日本書紀』に「難波大別王寺」とあるように、大別天皇は寺を持っていた。天皇大別とあるように、大雀は意乎巳、大雀を倒した大別は多遅麻の子なので、弟比賣の子である。

木菟と鷦鷯に「取其鳥名」と名を交換した。弟比賣の子に木之菟野郎女が存在し、大雀が婿入りし、木菟宿禰、すなわち、木國王になった。木國の紀武内宿祢が平群木兎宿祢と呼ばれ、名すなわち国を交換した。

宇遲能和紀郎子の妃が八田若郎女(おそらく、宇遲之若郎女)で大別が矢田部の姓を得た。矢河枝比賣が弟比賣で、大雀が姉妹の木之菟野郎女の婿なので、八田若郎女の後見人として、矢田部の姓を得た。皇子十三柱を統治したのが稚彦と従妹の毛良姫、この二名は若野毛二俣と其の母弟の百師木伊呂辨の兄妹はその名に相応しいい。百師木伊呂辨の姉妹は石之日賣、若野毛二俣は葦田宿禰・倭直吾子篭・倭國造の祖の比香賀君で、女国天皇だろう。

2025年6月2日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話51 弟比賣の終焉

  弟比賣の名の継承と同様に、眞若王・眞若比賣も継承された。師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣と夫の鋤友と考えられる磯城縣主太眞稚彦が始まりである。師木は伊勢遺跡がある首都の地域だ。そして、穂積氏の祖の内色許男の妃の芹田真若姫、その母と考えられるのが春日の千千速眞若比賣である。内色許男の娘が比古布都押之信の母の先代の伊迦賀色許賣だ。そして、比古布都押之信と兄妹の伊迦賀色許賣の共通の孫の八坂之入日子と考えられる水之穗眞若、その子の山代之大筒木眞若と継承される。

伊那毘能若郎女の祖母と考えられるのが御眞津比賣の娘の伊邪能眞若だ。それを継承するのが穂積氏の祖の忍山宿禰と考えられる大碓と伊那毘能若郎女との娘の眞若比賣である。眞若比賣は尾綱真若刀婢の可能性が高い。刀婢は王の呼び名だろう。尾綱真若刀婢の子の品陀眞若、品陀眞若の娘の息長眞若中比賣と続く。

そして、息長眞若中比賣の弟と考えられる伊奢能麻和迦、伊奢能麻和迦と弟比賣との娘と考えられる弟日賣眞若比賣に繋がる。さらに、弟日賣眞若比賣の娘の弟比賣(田井中比賣)、その子と考えられる丸迩臣深目の娘の童女君の娘の春日大郎女の子の春日氏の眞若王(皇女)へと継承されたと考えられる。田井中比賣の娘も弟比賣か眞若比賣だが、その婿は誰だろうか。

反正天皇は五十琴宿祢と多遅麻の娘香兒媛との子の伊莒弗なのだろうか。伊莒弗の妃は倭國造の祖の比香賀君の娘の玉彦媛、子の布都久留・目は共に大連(天皇)になっている。すなわち、反正天皇の子は天皇になっていないので、反正天皇の義父の丸迩の許碁登が伊莒弗である。

難波朝時には比香賀君(若沼毛二俣)が近江の女國の天皇だったが、伊莒弗は難波から稚櫻宮に移り住んで、女國は弟比賣の婿が引き継いだと考えられる。許碁登の娘の子に都夫良郎女が存在し、都夫良大臣の妃と考えられ、弟比賣の夫は皇后黒比賣の兄弟の蟻臣だ。蟻臣の娘の荑媛が市辺押磐の妃でその子の袁祁・意祁が天皇になっている。

荑媛は恐らく財王と呼ばれ、春日大郎女の子に財郎女が存在する。世代的に蟻臣の娘の弟比賣が田井中比賣で、弟比賣は、『日本書紀』では衣通郎姫だが、『古事記』では輕大郎女が衣通郎女なので、輕大郎女である。弟比賣の夫は木梨之輕、意乎巳の兄弟の尾治弟彦の跡継ぎで允恭廿三年三月甲午朔庚子は434年ではなく、正しくは465年に、(三川)穂國造の葛木氏の菟上足尼によって、弟国は消滅したようだ。天照大神を豐鋤入日賣に託してから、八坂之入日子が伊勢麻績君に賜姓されて、尾張氏の弟国は六百年近く、そして、弟比賣も継承されたことになる。