2021年7月2日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段16

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて、「伊奘諾尊滌御身之時(?)生之神三柱洗左御目時所成之神名天照太御神洗右御目時所成之神名月讀命並坐五十鈴以且謂伊勢齊大神洗御鼻之時(?)成之神名速素戔鳥尊坐出雲國熊野築杵神宮矣伊奘諾尊大歡喜詔日吾生之子而於生終時得三貴子召其御頭珠之玉緒母由良迦斯而賜詔其御頭珠名謂御倉板舉神伊奘諾尊詔天照太神云汝命者所知髙天原矣謂寄賜矣次謂月讀命汝命者所知夜之食國矣謂寄賜也次詔素戔鳥尊云汝命者所知海原矣謂寄賜矣故各隨寄賜命所知者之中速素戔鳥尊不治所命之國而八拳鬢至千心前啼泣矣伊奘諾尊詔日吾欲生御寓之珎子即化出之神三柱矣左手持白銅鏡則有化出之神是謂大日孁尊右手持白銅鏡則有化出之神是謂月弓尊廻顧(?目丐)之間則有化出之神是謂素戔鳥尊即大日孁尊及月弓尊並是質性明麗故素戔鳥尊是性好殘害故令下治根國矣伊奘諾尊勑任三子日天照太神者可以御治髙天之原也月讀尊者可以治滄海原之潮八百重也後配日而知天事所知夜之食國也素戔鳥尊者可以治天下覆滄海之原也素戔鳥尊年巳長矣覆生八拳髻鬢雖然不治所寄天下當以啼泣悉恨伊奘諾尊問之日汝何故恒啼如此耶素戔鳥尊對日吾欲從母國於根國只爲泣耳伊奘諾尊悪之日可以任情行矣乃退矣伊奘諾尊勑素戔鳥尊日何由不治所寄之國泣啼之矣素戔鳥尊日欲罷妣國恨之堅州國故泣矣伊奘諾尊大忿怒詔日汝甚无道不可以君臨宇宙不可住此國當遠適於根國遂矣」、【伊奘諾が体をすすいだときに三柱の神が生まれた。左の目を洗ったときに生まれた神の名は、天照大神。右の目を洗ったときに生まれた神の名は、月読。この二柱の神は、一緒に五十鈴川の河上いる伊勢にお祀りする大神だ。鼻を洗ったときに生まれた神の名は、速素戔烏。出雲の国の熊野神宮と杵築神宮にいる。伊奘諾尊は「私が生んだ子を生み終え、三柱の尊い子を得た」と、とても喜んだ。その首の首飾りの玉の緒を、ゆらゆらと揺り鳴らして授けた。その首飾りの珠に名を与え、御倉板挙という。伊奘諾が天照大神に「あなたは高天原を治めなさい」と詔勅して委任した。次に、月読に「あなたは夜の食国を治めなさい」と詔勅して委任した。次に、素戔烏に「あなたは海原を治めなさい」と詔勅して委任した。こうして、それぞれの言葉にしたがって治めたが、その中で速素戔烏だけは、委任された国を治めず、長い顎髭が胸元にとどくようになるまで、ずっと泣きわめいていた。伊奘諾は「私は天下を治めるべきすぐれた子を生もうと」と言って三柱の神が生れ出た。左手で白銅鏡を取ったときに、生まれた神が大日孁という。右手で白銅鏡を取ったときに、生まれた神を月弓という。首を回して後ろを見たときに、生まれた神を素戔烏という。このうち、大日孁と月弓は共にひととなりが麗しいのに、素戔烏の性質はよく物を誤ってい壊すところがあった。そこで、降して根の国を治めさせた。伊奘諾尊は三柱の子に「天照太神は高天原を治めなさい。月読は青海原の潮流を治めなさい」と任命した。月読は後に、日の神にそえて天のことを司り、夜の世界を治めさせた。素戔烏に、天下および青海原を治めさせた。素戔烏は歳もたけ、また、長い髭が伸びていた。けれども、統治を任された天下を治めず、いつも泣き恨んでいた。伊奘諾が「お前はなぜ、いつもこんなに泣いているのか」とそのわけを尋ねた。素戔烏は「私は母のいる根の国に行きたいと思って、ただ泣くのです」と答えた。伊奘諾は、「勝手にしろ」と憎んだ。そうして素戔烏は親神のもとを退いた。伊奘諾が、素戔烏に「どうゆうわけで、私の任せた国を治めないで、泣きわめいているのか」と言い、素戔烏尊は「私は亡き母のいる根の堅州国に行きたいと思うので、泣いているのです」と言った。伊奘諾は、お前はたいへん無道だ。だから天下に君臨することはできない。この国に住んではならない。必ず遠い根の国に行きなさい」とひどく怒った。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「是洗左御目時所成神名天照大御神次洗右御目時所成神名月讀命次洗御鼻時所成神名建速須佐之男命右件八十禍津日神以下速須佐之男命以前十柱神者因滌御身所生者也此時伊耶那伎命大歓喜詔吾者生子而於生終得三貴子即其御頸珠之玉緒母由良迩取由良迦志而賜天照大御神而詔之汝命者所知高天原矣事依而賜也故其御頸珠名謂御倉板舉之神次詔月讀命汝命者所知夜之食國矣事依也次詔建速須佐之男命汝命者所知海原矣事依也」、【そこで左の目を洗った時に、生まれた神の名は、天照大御神。次に右の目を洗った時に、生まれた神の名は、月讀。次に鼻を洗った時に、生まれた神の名は、建速須佐之男。この時伊邪那伎は、とても歓喜して「私は子生んで、生み終に三はしらの貴い子を得た。」言って、即ち首輪の玉の端をゆらして、天照大神に「お前は、高天の原を治めなさい。」と言って与えた。それで、その首輪の名を、御倉板擧という。次に月讀に「お前は、夜の食国を統治しなさい。」と言った。次に建速須佐之男「お前は、海原を治めなさい。」と言った。】と訳した。

『舊事本紀』は既に三貴神を生んだのに、また白銅鏡を使って伊弉諾が生んでいるが、しかし、ここでの三貴神生みは『日本書紀』本文に従っていても、これまでの『舊事本紀』のように、後ろに物部氏の神話を追加したのであり、前項で述べたように『古事記』の巨勢氏は皇后の家系の神話を纏め上げたと考えられ、この神話は銅鏡が作られだした紀元前2世紀頃の多紐文鏡の時代の神話と考えられる。

『日本書紀』には崇神天皇の時に「出雲人祭眞種之甘美鏡」と出雲人が鏡を持ち込んでいて、出雲では鏡が祭祀に使われていたが、畿内では使われていないようで、崇神天皇まで銅鐸が主流の王朝だったと考えられ、「出雲色多利姬」の子の「出雲醜大臣」、孫の世代の「欝色雄」、弟の「伊香色雄」の子が崇神天皇なのだから、紀元前200年頃に畿内に鏡を持ち込んだ勘定になる。

『舊事本紀』に記述されているように、渟中底姫の甥の建飯勝が出雲臣の娘の沙麻奈姫を娶っているが、出雲大臣の母「出雲色多利姬」には臣も国も記述されず、崇神天皇時に記述される大田田祢古の子の大御氣持の妻が出雲の鞍山祇姫、建飯勝と出雲臣の娘の沙麻奈姫の子が建甕槌、大物主神が大田田祢古の父なのだから、建飯賀田須が大物主で、『古事記』の神武天皇につながる神話の時代を含む説話で、出雲醜は兄大祢が大国に「奉齋大神」と大神にあたり、本人は大の国神すなわち臣の大国の臣の大臣を受け継ぎ、大国のNo2になった。

饒速日は「乘天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐於大倭國鳥見白庭山天降」と河内・鳥見に天降り、その河内の青玉繋の娘が波迩夜須毘賣、その子が波迩夜須毘古と建氏の神の名で、地名による名なら河内彦若しくは鳥見に移って鳥見彦、すなわち、『古事記』の登美毘古・登美夜毘賣と合致し、登美毘古の姻戚に出雲醜の孫の鬱色謎がなり、大物主の阿田賀田須は和迩君の祖で和迩臣の祖の姥津の孫は彦坐王と最初に王と呼ばれる人物である。

そして、『舊事本紀』の神武天皇の皇后は大三輪神の娘、すなわち、事代主が大三輪神で大田田祢古の孫大鴨積が崇神朝に賀茂君を大友主が大神君を賜姓され、『舊事本紀』の神武東征は崇神紀にあったことを示している。

すなわち、『日本書紀』は事代主の娘婿の三八(神倭)国の神武、『古事記』は大物主の娘婿の葛城氏の説話を流用した扶桑国の神武、舊事本紀』の大三輪(大宮)の娘婿の神武天皇を記述している。


2021年6月30日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段15

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて、「伊奘諾尊親見泉國此既不祥也還乃追悔之日吾前到於不須也凶目汚穢之處故當滌去濯除吾身之觸穢則往見粟門及速吸名門然此二門潮太急故還向於日向橘之小戸檍原而秡除焉遂將盪滌身之所汚乃興言詔日陽神爲禊泉穢到日向橘之小戸檍原而秡禊御身時(?)成神十二柱故於投棄御杖(?)成神名衝立舩戸神次於投棄御帯(?)成神名道長乳齒神次於投棄御裳(?)成神名時置師神次於投棄御衣(?)成神名有和内良比能宇斯能神次於投棄御褌(?)成神名道俣神次於投棄御冠所成神名飽坐之宇斯能神次於投棄左御手之纒所成神名奥踈神号日奥津那藝佐彦神次奥甲斐辨羅神次於投棄右御手之纒所成神名鳥津神号日邊津那藝佐彦神次邊甲斐辨羅神伊奘諾尊詔上瀬者速下瀬者弱而初於中瀬潜滌之時(?)成之神二柱 神名八十禍津日神次大禍津日神覆爲直其禍而所成神三柱神名神直日神次大直日神次伊立能賣神覆入水吹生磐土命次出水吹生大直日命覆入吹生底土命次出吹生大綾津日神覆入吹赤土命次出吹生大地海原之諸神矣覆洗濯於海底時因以生二神号日底津少童命次底筒男命覆潜濯於潮中因以生二神号日中津少童命次中筒男命覆浮濯於潮上因以生二神号日表津少童命次表筒男命凡有六神矣底津少童命中津少童命表津少童命此三神者阿曇連等齊祠筑紫斯香神底筒男命中筒男命表筒男命此三神者津守連齊祠住吉三所前神」、【伊奘諾は、みずから黄泉の国を見た。これは不吉であった。帰って悔いて、「私はつい先ほど、ひどく穢れたところへ行ってきた。だから、私の体についた汚れを洗い、すすいで除こう」と言った。出かけて粟門と速吸名門を見た。ところが、この二つの海峡は潮の流れがとても急だった。そこで、日向の橘の小戸の、檍原に帰り祓った。体の汚れをすすごうとして、言葉に出して男神は黄泉の穢れを祓おうとした。日向の橘の小戸の、檍原で、体を祓った。このとき、十二柱の神が生まれた。まず、投げ捨てた杖が成った神の名は、衝立船戸。次に、投げ捨てた帯が成った神の名は、道長乳歯。次に、投げ捨てた裳が成った神の名は、時置師。次に、投げ捨てた衣が成った神の名は、和内良比能宇斯。次に、投げ捨てた袴が成った神の名は、道俣。次に、投げ捨てた冠が成った神の名は、飽咋の宇斯。次に、投げ捨てた左の手の腕輪が成った神の名は、奥疎神。名づけて奥津那芸佐彦という。次に、奥甲斐弁羅。次に、投げ捨てた右の手の腕輪が成った神の名は、辺疎神。名づけて辺津那芸佐彦という。次に、辺津甲斐弁羅。伊奘諾が「上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れがおそい」と言い、はじめ、中ほどの瀬で穢れを洗い清めたときに、二柱の神が生まれ出た。その神の名は、八十禍津日。次に、大禍津日。また、その禍を直そうとして三柱の神が生まれ出た。その神の名は、神直日。次に、大直日。次に、伊豆能売。また、水に入って磐土を吹き出した。次に、水から出て大直日を吹き出した。また入って、底土を吹き出した。次に出て、大綾津日を吹き出した。また入って、赤土を吹き出した。次に出て、大地と海原の諸々の神を吹き出した。また、海の底にもぐってすすいだときに、それによって二柱の神が生まれた。名づけて、底津少童という。次に、底筒男という。また、潮の中にもぐってすすいで二柱の神が生まれた。名づけて、中津少童という。次に、中筒男という。また、潮の上に浮かんですすいで二柱の神が生まれた。名づけて、表津少童という。次に、表筒男という。あわせて六柱の神がいる。底津少童、中津少童、表津少童この三神は、阿曇連達がお祀りする、筑紫の斯香の神だ。底筒男、中筒男、表筒男の三神は、津守連がお祀りする、住吉の三社の神だ。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「是以伊耶那伎大神詔吾者到於伊那志許米上志許米岐穢國而在祁理故吾者爲御身之禊而到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而禊祓也故於投棄御杖所成神名衝立舩戸神次於投棄御帯所成神名道之長乳歯神次於投棄御嚢所成神名時量師神次於投棄御衣所成神名和豆良比能宇斯能神次於投棄御褌所成神名道俣神次於投棄御冠所成神名飽咋之宇斯能神次於投流(棄)左御手之手纏所成神名奥疎神次奥津那藝佐毗古神次奥津甲斐弁羅神次於投棄右御手之手纏所成神名邊疎神次邊津那藝佐毗古神次邊津甲斐弁羅神於是詔之上瀬者瀬速下瀬者瀬弱而初於中瀬隋迦豆伎而滌時所成坐神名八十禍津日神次大禍津日神此二神者所到其穢繁國之時國汚垢而所成神之者也次爲直其禍而所成神名神直毗神次大直毘神次伊豆能賣次於水底滌時所成神名底津綿上津見神次底箇之男命於中滌時所成神名中津綿上津見神次中箇之男命於水上滌時所成神名上津綿津見神次上箇之男命此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也故阿曇連等者其綿津見神之子宇都志日金析命之子孫也其底箇之男命中箇之男命上箇之男命三柱神者墨江之三前大神也於」と、『舊事本紀』にほゞ同じだ。

生んだ神は『古事記』も『舊事本紀』もほゞ同じ神名で、同じ神話を元にしていると思われるが、『舊事本紀』には大直日が重複して記述されて2つの神話をつなぎ合わせたようで、その後に大綾津日と対馬の日神と思われる神を記述して物部氏の対馬起源を示し、大直日は「葛城国造垂見宿彌」の子に「意富那毘」が同名で、他氏族の神と同名を使用するとは思えないので、葛城氏の神話を接合していると考えられる。

そして、「道長乳歯」の類似の神が『舊事本紀』の「乳速日」で「廣沸神麻續連等祖」と広国配下の神で葛城氏の役職名と証明した「白髮武廣國押稚日本根子」や「廣國排武金日」・「武小廣國押盾」の廣で『日本書紀』の安康天皇まで記述した部分には登場することが無かった人物の祖神で麻續連を「おみむらじ」と読むが、「中臣烏賊津使主」と同じ王朝の出自で『日本書紀』は「使主」を「臣・おみ」と認識せず、推古紀には認識したので、安閑天皇元年「使主皆名小杵也」と注釈を加え、「臣」の文字を使う制度は物部氏若しくは尾張氏の制度である。

また、「飽咋宇斯」、「和内良比能宇斯」は『舊事本紀』の「丹波道主王」、『古事記』の「丹波比古多多須美知能宇斯王」と主を「うし」と言う地域の神話で、 「道俣」は『舊事本紀』に「須勢理姫而所生之子者判挾木俣名其子云木俣神」と素戔烏の義父で、『古事記』では「八俣の遠呂智」、隠岐と敵対する「八」国の兵士で大国の神話である。


2021年6月28日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段14

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて、「伊奘諾尊勑桃子日汝如助吾於葦原中國所有顯見蒼生之落苦瀬而患楤(?手偏)之時可助告而賜名号日意富迦牟都美命矣伊弉冉尊親自最後追來于泉津平坂之時伊奘諾尊乃投其杖日自此以還雷軍不敢來矣伊奘諾尊覆於泉津平坂以千人所引盤右塞其坂路其石置中相對而立遂建絶妻之誓渡其事戸之時伊弉冉尊盟日不負於族乃(?)竪之神号日速玉之男神次掃之神泉津事解之男神伊弉冉尊愛也吾夫君言如此者吾當溢煞汝(?)治國民日將千頭矣伊奘諾尊乃報日愛也吾妹言如此者吾當産生日將千五百頭矣是以一日千人必死矣一日千五百人必生也伊奘諾尊因日自此莫過則生三神矣即投其杖是謂岐神号日來名戸神也覆投其帯是謂長道盤神也覆投其履是謂道敷神又云煩神又云開嚙神伊弉冉尊謂黄泉津大神覆以其追斯伎頻斯而号道敷大神覆所塞其黄泉坂之石者号道反大神覆所塞般石是謂泉門寒之大神覆塞坐黄泉戸大神也伊奘諾伊弉冉二神矣覆既及其與妹相闘於泉津平坂也伊奘諾尊日始爲族悲及思哀者是吾之怯矣時泉守道者日云有言矣吾與汝巳生國矣奈何更求生乎吾則當留此國不可共去是時菊理媛神亦有白事矣伊奘諾尊聞而善之乃散去矣如今世人所忌先於婦死夫避葬處盖縁斯欤凡厥所謂泉津平坂者不覆別有處(?)但臨死氣絶之際謂斯之欤謂出雲國伊賦夜坂伊弉冉尊者葬於出雲國與伯耆國堺比婆之山也伊弉冉尊葬於紀伊國熊野之有馬村焉土俗祭此神之魂者花時以花祭覆用鼓吹幡旗歌舞而祭矣」、【伊奘諾は、桃の実に「お前が私を助けたように、葦原の中国に生きているあらゆる人々がつらい目にあって、苦しんでいるときに助けてやれ」と詔勅して意富迦牟都美という名前を与えた。最後に、伊弉冉自身が、泉都平坂へ追いかけて来たとき、伊奘諾はその杖を投げて「ここからこちらへは、雷の兵は来ることができない」と言った。伊奘諾はまた、泉津平坂に千人引きの岩で、その坂道をふさぎ、岩を間に置いて伊弉冉と向かい合って、ついに離縁の誓いを立てた。その離別の言葉を交わしているとき、伊弉冉は「あなたには負けない」と誓って唾をはいた。そのとき生まれた神を、名づけて日速玉之男という。次に、掃きはらって生まれた神を泉津事解之男と名づけた。伊弉冉が「愛しい私の夫よ、あなたが別れの誓いをいうのなら、私はあなたが治める国の民を、日に千人ずつ絞め殺そう」と言った。伊奘諾は「愛しい私の妻よ、そのようにいうのなら、私は日に千五百人ずつ生ませる」と答えたので、日に千人が必ず死に、日に千五百人が必ず生まれる。伊奘諾がこれで「ここから入ってはいけない」と言って、三柱の神を生んだ。その杖を投げた。これを岐神という。名づけて来名戸という。また、その帯を投げた。これを長道磐という。また、その履を投げた。これを道敷または煩といい、または開歯という。伊弉冉を、黄泉津大神という。また、伊奘諾に追いついてきたので、道敷大神と呼ぶ。また、その黄泉の坂を塞ぐ岩を、道反大神と呼ぶ。また、塞いでいる岩を、泉門塞之大神という。また、塞坐黄泉戸大神という。伊奘諾・伊弉冉が、その妻と泉津平坂で争いあったとき、伊奘諾が「はじめあなたのことを悲しみ慕ったのは、私の気が弱かったからだ」と言った。このとき泉守道者が「伊弉冉からの伝言がある。『私はあなたと既に国を生んだ。どうして更に生むことを求めましょう。私は、この国にとどまって、一緒に行きません』といわれました」と言い、菊理媛も同じように言った。伊奘諾は、これを聞き、ほめて去った。今の人が忌むことに、先に妻が死んだとき、夫が殯の場所を避けるのは、これが始まりだろうか。いわゆる泉津平坂というのは、別のところにあるのではない。ただ死に臨んで息絶えそうなときをこういうのだろうか。出雲国の伊賊夜坂であるともいう。伊弉冉は、出雲の国と伯耆の国との境にある、比婆の山に葬った。伊弉冉は、紀伊の国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神の魂を祀るのには、花の時期に花でお祀りし、鼓・笛・旗を使って歌って舞ってお祀りする。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「尓伊耶那岐命造(告)桃子汝如助吾於葦原中國所有宇都志伎青人草之落苦瀬而患惚(悩)時可助告賜名号意富加牟豆美命(自意至美以音)最(宀)後其妹伊耶那美命身自追來焉尓千引石引塞其黄泉比良坂其石置中各對立而度事戸之時伊耶那美命言愛我那勢命爲如此者汝國之人草一日絞殺千頭尓伊耶那岐命詔愛我那迩妹命汝爲然者吾一日立千五百産屋是以一日必千人死一日必千五百人生也故号其伊耶那美神命謂黄泉津大神亦云以其追斯伎斯而号道敷大神亦所塞其黄泉坂之石者号道反之大神亦謂塞坐黄泉戸大神故其所謂黄泉比良坂者今謂出雲國之伊賦夜坂也」、【そこで伊邪那岐は、その桃の実に「お前は、私が助けたように、葦原の中国に有る宇都志伎青人草が、急な瀬に落ちて憂い苦しむ時に、助けた。」と告げて、名を与えて意富加牟豆美と名乗った。最後にその妻の伊邪那美は、自ら追い来った。ここで千引の石をその黄泉の比良坂に引き塞いで、その石を中心に置いて、互いに向かい合って立ち、言葉を交わした時、伊邪那美は「愛しい私の夫よ、このようにしたので、お前の国の人々が、日に千人の首を切って殺そう。」と言った。そこで伊邪那岐は「愛しい私の妻よ、お前がそのようにしたら、私は日に千五百の産所を建てよう。」と言った。そのため、日に必ず千人死に、日に必ず千五百人生まれる。それで、伊邪那美を名付けて黄泉津大神という。または、その折って来たものを、道敷大神と名付けた。また黄泉の坂で塞いだ石は、道反之大神と名付け、また塞いでいる黄泉戸大神ともいう。それで、その所謂、黄泉の比良坂は、今、出雲の国の伊賦夜坂という。】と訳した。

『舊事本紀』も『古事記』も撃退した桃の神を「意富迦牟都美」・「意富加牟豆美」すなわち意富神・津神と、隠岐と対馬の神と呼び、「なか」国の守り神としたと述べて、『舊事本紀』も『古事記』も、同じ神を祀り、「なか」国出身の王朝とここでは記述している。

通常『舊事本紀』も『古事記』も大神を使用しているが、この神にはあえて大神を使わず意富神が使われているのは、大国の神と分別していると考えられる。

そして、伊弉冉も黄泉津大神と大国の神と習合し、対馬が大国の配下となって、黄泉の軍を守る杖(王を象徴する)から生まれたのが岐神で、三貴神生みの神話が出来る基となったようである。

すなわち、この伊弉冉死後の説話は物部氏の出自の対馬の神話を付加したもので、軻遇突智が火の神とする『舊事本紀』の神話は『古事記』では「生火之夜芸速男神・・・亦名謂火之迦具土神」と迦が火を表しておらず、『日本書紀』では神武紀に登場し、『舊事本紀』の軻遇突智神話は火()を「か」と読む漢字が日本に入って来た後の説話で、『日本書紀』の神武紀に挿入したのは物部氏の神武天皇の説話を挿入したことを示している。

従って、『日本書記』の黄泉は対馬、『古事記』の黄泉は比婆山、『舊事本紀』の黄泉は熊野と述べ、『日本書紀』の伊弉冉の出身地は出雲国がまだ無く根国で天照の領地ではなく、将来出雲国になる地域で、根国は王朝の始まりとなる土地を述べていると考えられる。

2021年6月25日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段13

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて、「伊奘諾尊欲相見其妹伊弉冉尊追往黄泉國則到殯斂之處尓自殿騰戸出向猶平生出迎共語之矣伊奘諾尊謂日悲汝故來其愛我那迩妹尊吾與汝(?)作之國未作竟故可還矣伊弉冉尊對日悔哉吾夫君尊何來之晩也吾巳饗泉之竃矣雖然吾當寢息然愛我那勢命入來坐之事隠故欲還具與黄泉神相論請扶也勿視吾矣如此白而還入其殿内之間甚久難侍矣伊奘諾尊不聽(?)請于時闇也故刺左御髻湯津爪櫛索折其雄柱一箇以爲秉乃擧一片之火而見之今世人夜忌一片之亦夜忌擲櫛此其縁矣伊弉冉尊脹滿太髙腫沸虫流其上有八雷居於頭者火雷居於胷者火雷居於腹者黒雷居於陰者列雷居於左手稚雷居於右手土雷居於左足鳴雷居於右足伏雷也伊奘諾尊大驚之日吾不意到於不須也凶因語汚穢國矣乃急走廻歸之時伊弉冉尊恨日不用要言令吾恥辱汝巳見我情我覆見汝情于時伊奘諾尊(?)將出返之時不直黙歸而盟之日族離矣伊弉冉尊乃遣泉津配女追而留矣伊奘諾尊抜劍背揮以逃矣因投黒鬘此即化成葡萄醜女見而採敢之噉畢亦即追之矣伊奘諾尊覆投右鬘湯津爪櫛此即化生筍醜女亦抜而噉之敢畢則更亦追矣伊奘諾尊逃行且後於八雷神副千五百之黄泉軍令追尓抜所御偑十握劔而後手布里都之逃走矣伊奘諾尊乃向大樹放尿此即化成巨川泉津日狹女將渡其水矣伊奘諾尊逃到黄泉平坂則立隱桃樹採其桃子三箇待撃者黄泉雷軍皆悉逃還矣凡厥用桃避鬼(?)是其縁也」、【伊奘諾は、妻の伊弉冉に会いたいと、後を追って黄泉の国に行き、もがりの場所にやって来て、伊弉冉は御殿の戸を上げて出迎え、生きていたときのように語りあった。伊奘諾は「あなたが愛しくてやってきた。愛しい妻よ、私とあなたとで造った国は、まだ造り終えていない。だから帰ってこい」と言った。伊弉冉が「残念です。あなたは来るのが遅すぎた。もう、黄泉の国の食べ物を食べてしまって眠るところです。けれども愛しいあなたが、わざわざ訪ねてきたから帰りたいと思うので、しばらく黄泉の神と相談します。私を見ないで」と答えて、女神は、その御殿の中に入っていったが、その間がとても長く、待ちきれなくなった。伊奘諾は見ないでという願いを聞かず、暗かったので、左の御髻に挿していた湯津爪櫛の、太い歯の一本を折り、手灯として火をともして見た。今、夜に一つだけ火をともすことを忌み、また夜、櫛を投げることを忌むのは、これが由来だ。伊弉冉は、死体がはれ上り蛆がたかっていた。その上に八の雷があった。頭には大雷、胸には火雷が、腹には黒雷、陰部には列雷、左手には稚雷、右手には土雷、左足には鳴雷、右足には伏雷がいた。伊奘諾はとても驚いて「私は思いがけなくも汚い国に来てしまった」と言い、急いで逃げ帰った。伊弉冉は恨んで「約束を守らないで、私を辱しめた。あなたは私の本当の姿を見てしまった。私も、あなたの本心を見た」と言い、伊奘諾は恥じて、出て帰ろうとしたとき、ただ黙って帰らないで「縁を切ろう」と誓った。伊弉冉は泉津醜女を派遣して、追いかけさせて留めようとした。伊奘諾は剣を抜いて後ろを振り払い逃げた。そして髪に巻いていた鬘草の飾りを投げると、葡萄になった。醜女はこれを採って食べた。食べ終わると、また追いかけた。伊奘諾はまた、右の髪に挿していた湯津爪櫛を投げた。これは筍になった。醜女はそれを抜いて食べた。食べ終わるとまた追いかけた。伊奘諾はそこから逃げたが、その後に、八の雷神が千五百の黄泉の兵を率いて追ってきた。そこで帯びた十握の剣を抜いて、後ろを振り払いながら逃げた。伊奘諾は、大樹にむかって放尿した。これが大きな川となった。泉津日狭女がこの川を渡ろうとする間に、伊奘諾は逃げて黄泉平坂に着いた。そこになっていた桃の木の陰に隠れて、その実を三つ取って待ち、投げつけたら、黄泉の雷の兵はみな退散した。これが、桃を使って鬼を防ぐ由来だ。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「是欲相見其妹伊耶那美命追往黄泉國尓自殿滕戸出向之時伊耶那岐命語詔之愛我那迩妹命吾與汝所作之國未作竟故可還尓伊耶那美命荅白悔哉不速來吾者爲黄泉戸喫然愛我那勢命入來坐之事恐故欲還且與黄泉神相論莫視我如此白而還入其殿内之間甚久難待故判(刺)左之御美豆良湯津々間櫛之男柱一箇取闕而燭一火入見之時宇士多加禮許呂々岐弖(此十字以音)於頭者大雷居於胸者火雷居腹者黒雷居於陰者析雷居於左手者若雷居於右手者土雷居於左足者鳴雷居於右足者伏雷居并八雷神成居於是伊耶那岐命見畏而逃還之時其妹伊耶那美命言令見辱吾即遣豫母都志許賣令追尓伊耶那岐命取黒御鬘投棄乃生蒲子是摭食之間逃行猶追亦判(刺)其右御美豆良之湯津々間櫛引闕而投棄乃生筝是抜食之間逃行且後者於其八雷神副千五百之黄泉軍令追尓抜所御佩之十拳劔而於後手布伎都都逃來猶追別(到)黄泉比良坂之坂本時取在其坂本桃子三箇待撃者悉坂返也」と『舊事本記』とほゞ同じである。

前項は八柱の山祇、この項は雷で前項は「つみ」・この項は「つち」で、「ち」も「み」も1文字で神霊を表し、「つ」は「対馬」か港の「津」を表す1文字と考えられ、「む(な)ち」と宗像の霊を表すように、対馬の霊や神を表すと考えたほうが合理的である。

そして、「祇」は3・5・8と多くなって行くことから、元々、対馬1国の神が3国・8国と出張所を作った大八島の国生みの説話に繋がる神の時代毎の神を表し、それに対する港の国神である槌、物部氏・尾張氏の狭の地域から降って来た先祖神を表すと考えられる。

その大八島すなわち大倭国、『後漢書』の「大倭王」の神話がこの項の神話で、大倭王が支配する邪馬台国すなわち熊襲の地、建甕槌が支配した十握の剱を持っている建素戔嗚の地の神話を取り入れた神話と考えられ、神武天皇・懿徳天皇より後の大彦達の親の世代あたりの神話である。

そして、槌に雷を使用した理由が伊賀槌からと述べたが、それに加えて、鳴雷が有るように、弥生時代の音を鳴らす道具の銅鐸も理由で、金山彦・金山姫の金は銅鐸が鳴り響く山を表しているのかもしれない。


2021年6月23日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段12

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて、「伊奘諾尊深恨日愛矣吾那迩妹尊唯以一兒謂易子之一本替愛我那途妹尊者乎則匍匐御頭邊匍匐御脚邊而哭流涕時御涙隨為神坐香山之畝尾丘樹下所居之神号日啼澤女神伊奘諾尊遂抜所帶十握劍斬軻遇突智頸為三段亦爲五段亦爲八段三段各化爲神一段是爲雷神一段是爲大山祇一段是爲髙寵五段各化成五山祇一則首化爲太山祇二則身中化爲中山祇三則手化爲麓山祇四則腰化爲正勝山祇五則足化爲雜(しぎ?)山祇八段各化為八山祇一則首化爲大山祇 亦名正麓山津見神二則身中化爲中山祇亦名胷(?)成津見神三則腹化爲奥山祇亦名奥山與津見四則腰化爲正勝山祇亦於陰所成神名闇山津見神五則左手化爲麓山祇亦名志藝山津見神六則右手化爲羽山祇亦名羽山津見神七則左足爲原山祇亦名原山津見神八則右足化爲戸山祇 亦名戸山津見神覆劍鐔垂血激越爲神亦走就湯津石村(?)成之神名日天尾羽張神亦名凌威雄走神亦云甕速日神亦熯速日神亦槌速日神今坐天安河上天窟之神也兒建甕槌之男神亦名建布都神亦名豊布都神今坐常陸國鹿嶋大神即石上布都大神是也覆劍鐸垂血激越爲神亦血走就湯津石村所成之神名日磐裂根裂神兒盤筒男盤筒女二神相生之神兒經津主神今坐下総國香取大神是也覆劍頭垂血激越爲三神名闇寵次闇山祇次闇罔象是時斬血激灑染於石礫樹草砂石自含火其縁也」、【伊奘諾が「愛しい私の妻。ただ一人の子のために、愛しい私の妻を犠牲にしてしまった」と深く恨んで、頭のあたりや、脚のあたりで這いまわって、悲しみの涙を流した。涙は落ちて神となった。これが香山の畝尾の丘の樹の下にいる神で、名を啼澤女という。伊奘諾はついに、腰に帯びた十握の剣を抜いて軻遇突智の首を斬り、三つに断った。また、五つに断った。また、八つに断った。三つがそれぞれ神になった。そのひとつは雷神となった。ひとつは大山祇となった。ひとつは高寵となった。五つそれぞれが五つの山の神になった。第一は首で、大山祇となった。第二は胴体で、中山祇となった。第三は手で、麓山祇となった。第四は腰で、正勝山祇となった。第五は足で、雜山祇となった。八つそれぞれが八つの山の神になった。第一は首で、大山祇または正鹿山津見という。第二は胴体で、中山祇または胸に生じた神で、瀬勝山津見という。第三は腹で、奥山祇または奥山上津見という。第四は腰で、正勝山祇または陰部に生じた神で、闇山津見という。第五は左手で、麓山祇または志芸山津見という。第六は右手で、羽山祇または羽山津見という。第七は左足で、原山祇または原山津見という。第八は右足で、戸山祇または戸山津見という。また、剣のつばからしたたる血がそそいで神となった。湯津石村に飛び散ってなり出た神を、天尾羽張またの名を稜威雄走または甕速日または熯速日または槌速日という。今、天安河の上流にいる、天窟である。天尾羽張神の子が建甕槌之男またの名を建布都または豊布都。今、常陸の国の鹿島にいる大神で、石上の布都大神がこれだ。また、剣の先からしたたる血がそそいで神となった。血が湯津石村に飛び散って、成り出た神を、磐裂根裂という。磐裂根裂神の子の磐筒男・磐筒女の二神が生んだ子が、経津主である。今、下総の国の香取にいる大神がこれだ。また、剣の柄頭からしたたる血がそそいで三柱の神となった。名を、闇寵、次に闇山祇、次に闇罔象という。このとき斬られた血がそそいで、石や砂や草木が染まった。これが砂や石自体が燃えることのある由来だ。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「於是伊耶那岐命抜所御佩之十拳劔斬其子迦具土神之頸尓著其御刀前之血走就湯津石村所成神名石析神次根析神次石箇之男神次著御刀本血亦走就湯津石村所成神名甕速日神次樋速日神次建御雷之男神亦名建布都神亦名豊布都神次集御刀之手上血自手俣漏出所成神名闇游加美神次闇御津羽神所殺迦具土神之於頭所成神名正鹿山上津見神次於胸所成神名游縢山津見神次於腹所成神名奥山上津見神次於陰所成神名闇山津見神次於左手所成神名志藝山津見神次於右手所成神名羽山津見神次於左足所成神名原山津見神次於右足所成神名戸山津見神故所斬之刀名謂天之尾羽張亦名謂伊都之尾羽張於」、【そこで伊邪那岐は、身に着けた十拳劒を抜いて、その子の迦具土の首を斬った。そこでその刀の先に着いた血が、湯津石村に走り去って、なった神の名は、石拆。次に根拆。次に石筒之男。次に刀の元についた血も、湯津石村に走り去って、なった神の名は、甕速日。次に樋速日。次に建御雷之男。またの名は建布都。またの名は豐布都。次に刀の持ち手の上に集まった血が、手の俣から漏れ出て、なった神の名は、闇淤加美。次に闇御津羽。殺した迦具土の頭になった神の名は、正鹿山上津見。次に胸がなった神の名は、淤縢山津見。次に腹がなった神の名は、奧山上津見。次に陰がなった神の名は、闇山津見。次に左の手がなった神の名は、志藝山津見。次に右の手がなった神の名は、羽山津見。次に左の足がなった神の名は、原山津見。次に右の足がなった神の名は、戸山津見。それで、斬った刀の名は、天之尾羽張といい、またの名は伊都之尾羽張と言う。】と訳した。

この説話は軻遇突智によって国を獲得したことを示していて、『日本書紀』は3国、これは三身国で筑紫の豊・速・建、『古事記』は八国で八の頭を持つ山祇の遠呂智、三身国の綱で国造りしたように大国は三身国の援助を受けた国、素戔嗚は八国を統一したと主張する神話で、『舊事本紀』は『古事記』の八国から『日本書紀』の3国を除いた5国の山祇に分裂したと述べ、『古事記』・『舊事本紀』は『日本書紀』の3国豊・速・建が雷神・大山祇・高寵の 大山祇を祖とする氏族の分派だと述べている。

其々の氏族には同じような事象から神が生まれ、同じような名前がつけられ、其々の氏族の合従連衡や侵略によって神が合祀や習合や、移住もあったので、神の名も亦の名や、神名を区別するため地名が接頭語としてつけられ、神話を完成させるとき、その神の名を使えばよく、そのため、無関係な神が同一の神とし、氏族に都合の良い解釈を行ったと考えられ、天之尾羽張のように、氏族によって善にも悪にもなる。

『日本書紀』では高倉下が武甕雷から布都の剱を貰い、毒気に当たって眠っていた神武天皇が目覚めた記事があるが、文字は「韴靈」と記述して今で言う「スパっと切れる妖刀」のような意味の熟語と考えられ、それを、巨勢氏以降が「布都」とこれも切れる表音文字で表現し、樋も『日本書紀』では、素戔嗚が壊すのは畔で樋ではなく、允恭紀に下樋が記述され平郡王朝以外の王朝が使ったと考えられ、また、5世紀末においても、暦を知らない神話の歴史時代ではない氏族があったことを示している。


 

2021年6月21日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段11

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて、「伊奘諾伊弉冉二尊俱議曰吾已生大八州及山川草木何不生天下之主者欤先生日神号日大日靈貴亦云尊天照太神要大日委此子光華明徹於六合之内故二神喜日吾息雖多未有若此異靈之兒不宜久留此國自當早送于天而授以天上之事是時天地相去未還故以天柱奉送於天上矣次生月神号日月讀尊亦云月夜見亦月号其光綵亞日可以配日而治故奉送于天次生素戔嗚尊此尊可治天下而此神勇悍以忍安旦常以哭泣爲行故令國内人民以夭折覆使青山變枯山覆河海悉泣乾矣以惡神之音如猍蠅流万物之妖如吹風皆登矣次生蛭兒雖已三歳而腳尚不立初二神巡柱之時陰神先發喜言既違陰陽之理所以初終生此兒矣次生鳥磐橡樟舩即以此舩乃載蛭兒流放棄矣伊弉冉尊欲生火之産靈迦具穾智 亦云火焼速男命神亦云火焼炭神之時因生此子美舉登見炙而病(?)矣旦神避之時悶熱懊悩因爲吐此化爲神名日金山彦神次金山姫神次小便亦尿化為神名日罔象女神次大便亦屎化為神名日埴安彦埴安姬神次生天吉葛󠄀次生稚彦靈日神此神之子謂豊受氣比女神火神軻遇突智娶土神埴安姫生稚皇産靈神此神頭上生蝅與桒臍中生五糓伊弉冉尊生火神軻遇突智之時見焦而神退生矣伊奘諾伊弉冉二尊共所生嶋十四神四十五柱也其磤馭盧嶋者非(?)生亦水蛭子要淡嶋不入子例伊奘諾尊深恨日愛矣吾那迩妹尊唯以一兒」、【伊奘諾・伊弉冉は、「私たちはもう、大八州や山川草木を生んだ。どうして天下の主となる者を生まないでよいのか」と相談した。そこでまず、日の神を生んだ。大日孁貴という。または天照太神といい、大日孁という。この子は、華やかで光りうるわしくて、六合の中で照りわたった。それで、二柱は喜んで「わが子たちは沢山いるが、いまだこんなにあやしく不思議な子はなかった。長くこの国に留めておくのはよくない。早く天に送り、天の上の仕事をしてもらおう」と言った。この時、天と地とはまだそれほど離れていなかった。そのため、天の柱で、天の上に送った。次に、月の神を生んだ。名づけて月読という。または月夜見、月弓という。その光りうるわしいのは、太陽に次いでいた。それで日に副えて治めさせるのがよいと、天に送った。次に、素戔烏を生んだ。これは天下を治めるべきだったが、勇ましくて荒々しく、残忍なことも平気で行った。また、常に泣きわめくことがあった。それで、国内の人々が若死にさせられた。また、青々とした山を枯れた山に変え、川や海の水をすっかり泣き乾くように干上がる程で、禍いをおこす悪神のさわぐ声は、むらがる蠅のように充満し、あらゆる禍いが吹く風のように一斉に発生した。次に、蛭児を生んだ。三歳になっても脚が立たなかった。はじめ伊奘諾・伊弉冉が柱を回った時に、女神が先に喜びの声をあげた。それが陰陽の道理にかなっていなかったため、最後にこの子が生まれた。次に、鳥磐櫲樟船を生んで、この船に蛭児を乗せて流し棄てた。伊弉冉が、火産霊迦具突智または火焼男命、または火々焼炭を生もうとしたとき、この子を生んだために、陰部が焼けて病の床に伏した。そうして死ぬときに、熱で苦しんだ。そのため嘔吐して神となった。名を金山彦、次に金山姫という。次に小便をし、それが尿神となった。名を罔象女という。次に大便をし、それが屎神となった。名を埴安彦と、埴安姫という。次に、天吉葛を生んだ。次に、稚産霊日を生んだ。この稚産霊日の子を、豊宇気比女という。火の神の軻遇突智は土の神の埴安姫を妻にして、稚皇産霊を生んだ。この神の頭の上に蚕と桑が生じた。臍の中に五穀が生まれた。伊弉冉は、火の神を生むときに、体を焼かれて死んだ。伊奘諾・伊弉冉が共に生んだ島は十四。神は四十五柱になる。ただし、磤馭盧島は生んだものではない。また、水蛭子と淡島は子の数には入れない。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故伊耶那美神者因生火神遂神避生(坐)也凡伊耶那岐伊耶那美二神共所生嶋壹拾肆嶋神参拾伍神故尓伊耶那岐命詔之愛我那迩妹命乎謂易子之一木乎乃匍匐御枕方匍匐御足方而哭時於御涙所成神坐香山之畝尾木本名泣澤女神故其所神避之伊耶那美神者葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也」、【それで、伊邪那美は、火の神を生んだので、とうとう神避った。すべての伊邪那岐、伊邪那美の二柱が、共に生んだ、十四島、神卅五神は伊邪那美がまだ神避る前に生んだ。ただ、意能碁呂島は、生んではいない。また、蛭子と淡島とは、子の例には入れない。それで伊邪那岐が「愛しい私の妻を子の一人と取り換えた。」と言って、それで枕へ這い、足へ這って哭いた時、涙が化った神は、香山の畝尾の木の元にいて、泣澤女と名づけた。それで、その神避った伊邪那美は、出雲の國と伯伎の國との堺の比婆の山に葬った。】と訳した。

『舊事本紀』は、ここでも、伊弉諾・伊弉冉が天の住人ではないと述べ、埴安彦・埴安姫が記述され、当然、政治の中枢にいる物部氏は平郡氏が既述した史書の『日本書紀』を知らないはずがなく、そこに出現する埴安姫・埴安彦親子を知らないはずがなく、埴安彦が稚皇産霊、埴安姫は河内青玉の娘なので青玉が『舊事本紀』の伊弉冉と言うことになり、『舊事本紀』の黄泉の国は和泉に当たり、埴安彦が長髓彦の物語のモデル、欝色雄が可美眞手のモデルと考えられる。

『日本書紀』では、伊弉冉の出身地が根国と記述し、葬った場所は記述しないが、原初では、水葬若しくは集落内に葬られているので、女は確実に出身集落に葬り、集落を出た男は結果的に水葬や風葬となると考えられ、『古事記』の伊弉冉は比婆の山が出身地、『舊事本紀』の伊弉冉は紀伊国熊野の「有馬村」が出身地のようで、各氏族にも独自の伊弉諾・伊弉冉のような人物が存在し、有名な伊弉諾・伊弉冉に名前を変えた。

そして、『舊事本紀』の神生みは、天照や月読ではなく、蛭子から始まり、最初に発声する順が間違いだから蛭子が生まれ、天に送ったのは蛭子で、その後で主神の火産霊迦具突智を生み、蛭子は葦で出来た舟で水葬したと考えられ、『古今和歌集 藤原興風』の「白浪に 秋の木の葉の 浮かべるを 海人の流せる 舟かとぞ見る」は海人が流す精霊流しの原型と考えられ、古代の葦舟の名残りと思うと以前述べた。

そして、天国の海流の上流から水葬して流れ着いた先が対馬(対岐)の黄泉で、その王が月読、蛭子は男だから水葬されたのであり、若しくは、男の伊弉諾は野垂れ死にを思わせる風葬で、伊弉諾から蛆がわき、草が生えて、生命を生む神と呼ばれたのだろうか。

2021年6月18日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段10

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「伊奘諾伊弉冉二尊既生国竟更生神十柱先生大事忍男神

次生石土毘古神次生石巣比賣神次生大戸日別神次生天之吹止男神次生大屋比古神次生風木津別之忍男神次生海神名大締津見神 亦名少童命次生水戸神名建秋津彦神 亦名建秋田命次生妹建秋津姫神覆速秋津彦速秋津姫二神因河海持別生神十柱先生沫那芸神次生津那美神次生那藝神次生頬那美神次生天之水分神次生國之水分神次生天之久比賣女道神次生國之久比賣女道神次生山神名大山止津見神一云大山神祇次生野神名鹿屋姫神亦云野推神覆大山祇神野稚神因山野持別而生神八柱先生天之狭土神次生國之狭土神次生天之狭霧神次生國之狭霧神次生天之闇戸神次生國之闇戸神次生大戸或子神次生大戸或女神覆生神名鳥之石楠舩神 亦云謂天鳥舩神覆生大宜都比女神伊奘諾尊日我所生之國唯有朝霧而薫満矣乃吹揆之氣化爲神是謂風神也風神号日級長津彦命次級長戸邊神次生飢時兒號稲倉魂命次生草祖号四草姫亦名野槌次生水門神等号建秋日命次生木神等号日句句廼馳神次生土神号日埴山姫神亦云埴安姫神然後悉生万物焉」、【伊奘諾・伊弉冉は、国を生み終え、さらに十柱の神を生んだ。まず大事忍男を生んだ。次に、石土毘古を生んだ。次に、石巣比売を生んだ。次に、大戸日別を生んだ。次に、天の吹上男を生んだ。次に、大屋比古を生んだ。次に、風木津別の忍男を生んだ。次に、海神、名は大綿津見またの名を少童を生んだ。次に、水戸神、名は建秋津彦またの名を建秋田を生んだ。次に、妻の建秋津姫を生んだ。また、この速秋津彦・速秋津姫の二神が、河と海を分担して十柱の神を生んだ。まず、沫那芸を生んだ。次に、津那美を生んだ。次に、頬那芸を生んだ。次に、頬那美を生んだ。次に、天の水分を生んだ。次に、国の水分を生んだ。次に、天の久比奢母道を生んだ。次に、国の久比奢母道を生んだ。次に、山神、名は大山津見一説には大山祇神を生んだ。次に、野神、名は鹿屋姫またの名を野推を生んだ。また、この大山祇と野稚が山と野を分担して八柱の神を生んだ。まず、天の狭土を生んだ。次に、国の狭土を生んだ。次に、天の狭霧を生んだ。次に、国の狭霧を生んだ。次に、天の闇戸を生んだ。次に、国の闇戸を生んだ。次に、大戸或子を生んだ。次に、大戸或女を生んだ。また神を生んだ。名を鳥の石楠船または天鳥船という。また、大宜都比女を生んだ。伊奘諾が「私が生んだ国は、ただ朝霧がかかっているが、よい薫りに満ちている」と言った。そうして霧を吹き払うと、その息が神になった。これを風神という。風神を名づけて級長津彦という。次に、級長戸辺、次に、飢えて力のない時に生んだ子を、稲倉魂と名づけた。次に、草の祖神を生んで、名づけて草姫またの名を野槌という。次に、海峡の神たちを生んだ。速秋日と名づけた。次に、木の神たちを生んだ。名づけて句々廼馳という。次に、土の神を生んだ。名づけて埴山姫また、埴安姫ともいう。その後、全ての物を生んだ。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「既生國竟更生神故生神名大事忍男神次生石土毘古神次生石巣比賣神次生大戸日別神次生天之吹上男神次生大屋毗古神次生風木津別之忍男神次生海神名大綿津見神次生水戸神名速秋津日子神次妹速秋津比賣神速秋津日子速秋津比賣二神因河海持別而生神名沫那藝神次沫那美神次頬那藝神次頬那美神次天之水分神次國之水分神次天之久比奢母知神次國之久比奢母智神次生風神名志那都比古神次生木神名久々能智神次生山神名大山津見神次生野神名麻鹿屋野比賣神亦名謂野椎神并四神此大山津見神野椎神二神因山野持別而生神名天之狭土神次國之狭土神次天之狭霧神次國之狭霧神次天之闇戸神次國之闇戸神次大戸或子神次大戸或女神次生神名鳥之石楠舩神亦名謂天鳥舩次生大宜都比賣神次生火之夜藝速男神亦名謂火之炫毗古神亦名謂火之迦具土神因生此子美蕃登見炙而病臥在多具理迩生神名金山毗古神次金山毘賣神次於屎成神名波迩夜須毗古神次波迩夜須毗賣神次於尿成神名弥都波能賣神次和久産巣日神此神之子謂豊宇氣毘賣神」とあり、概ね『舊事本記』と同じだが、『古事記』の神話は火を「か」と読む時代の神話で「句」を「迦」にして火の神を付け加え、かなり後代の神話である。

『日本書紀』には句句廼馳と草野姫(野槌)が登場するだけなのに対し、この2書は数多くの神が登場し、多くが重なっているが、これは、巨勢王朝の立役者の祖神が付け加えられたと考えられ、そのためなのか、『日本書紀』では景行天皇以降の「豊秋津」と豊国配下としているが、「速秋津」・「建秋津」と熊襲やそれ以前の配下で記述され、景行天皇より前の説話である。

しかし、『舊事本紀』は旧史書をなぞり、最後に自分の系図を付け加えるのが常なので、ここでは、級長津彦・級長戸辺・稲倉魂・草姫(野槌)・速秋日・句々廼馳・埴山姫(埴安姫)がそれにあたり、君子国の氏族を初め多くの氏族との上下関係を述べ、5世紀までの神話を取り入れ、記録あるものを紀伝体の歴史、記録が無い説話を神話に接合したと考えられ、『舊事本紀』は同じ説話が歴史時代と神話双方に記述されていると判断される。

それで、『古事記』は『日本書紀』の一書()より詳しく、平郡氏の皇后の葛城氏より巨勢氏の皇后の母方の歴史が古く、滋賀の伊勢遺跡の王朝の和珥・丸迩・物部氏の先祖神が反映されていることが考えられ、古代の皇位継承に皇后がその象徴だったことを物語っている。

また、大宜都比女が記述されていることから、粟国と血縁があり、速吸之門の道案内の「國神名曰珍彦」と珍彦は粟国出身のようで、『日本書紀』「珍彦爲倭國造」、『古事記』「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」と珍彦の娘で後に木國造を生む山下影日賣の子が建内宿祢で、建内宿祢の子の葛城氏の神武天皇の葛城襲津彦の東征の時に粟国の人物で建内宿祢の義父の珍彦が協力して、勝利をおさめて珍彦の子で葛城襲津彦の義兄弟が倭国造、兄弟の紀角宿禰が木国造となった続柄と思われる。