大新河が纏向朝廷を引き継ぐ前の月、前7年垂仁廿三年秋九月丙寅朔丁卯は九州や吉備の暦と考えられ、8月の事績である。「詔群卿曰譽津別王是生年既卅髯鬚八掬」と譽津別の記録だ。ところが、9月に大新河の即位後、冬十月乙丑朔壬申の「天皇立於大殿前譽津別皇子侍之時有鳴鵠度大虚」、十一月甲午朔乙未の「湯河板擧獻鵠也譽津別命弄是鵠」と正しい日干支で記述される。大新河によって、譽津別は師木に追放され、吉備の日干支で亡くなったようだ。
前5年垂仁廿五年春二月丁巳朔甲子は正しい日干支で、「今當朕世祭祀神祇豈得有怠乎」と天皇が交代した。日葉酢媛の夫の八坂入彦が崩じて山代之大筒木眞若(五十瓊敷入彦)が即位したと考えられる。そのため、三月丁亥朔丙申と正しい日干支の「離天照大神於豐耜入姫命託干倭姫命」と、皇后が豐耜入姫(日葉酢媛)から倭姫に交代した。
前4年垂仁廿六年秋八月戊寅朔庚辰も正しい日干支で、「天皇勅物部十千根大連曰屡遣使者於出雲國雖検校其國之神寶」と十千根(大根)が天皇の璽を管理する地位になった。『舊事本紀』には西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔に「五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」との記述があるが、既に大連になっているので、前の項で述べたように、前30年に大連に賜姓されたと考えた方が正しいようだ。
前3年垂仁廿七年秋八月癸酉朔己卯は九州・吉備の日干支なので、大新河の配下の記録で、「令祠官卜兵器爲神幣吉之故弓矢及横刀納諸神之社」と師木朝廷との戦いの準備を始めたのだろうか。前2年垂仁廿八年冬十月丙寅朔庚午は正しい日干支の「天皇母弟倭彦命薨」の記事は、倭が「あま」で尾張大海媛、『舊事本紀』は尾張大倭媛とも記述するので倭彦は大倭媛(大海媛)の子孫だろう。天皇大筒木眞若(五十瓊敷入彦)の母は日葉酢媛(豐耜入姫)であり、御上神社で大神を祀った。弟が倭彦(2代目大根・同母弟伊理泥)、その娘が倭姫で大筒木眞若の妃、『古事記』では丹波能阿治佐波毘賣と呼ばれたと考えられる。十一月丙申朔丁酉も正しい日干支で、「葬倭彦命于身狹桃花鳥坂於是集近習者」と記述され、御上神社の近くに武佐町がある。師木王朝の記録だ。
年候補
壬子 -221年2月朔日 -97年2月朔日 -30年2月朔日 -4年2月朔日