2025年9月12日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇3

    大新河が纏向朝廷を引き継ぐ前の月、前7年垂仁廿三年秋九月丙寅朔丁卯は九州や吉備の暦と考えられ、8月の事績である。「詔群卿曰譽津別王是生年既卅髯鬚八掬」と譽津別の記録だ。ところが、9月に大新河の即位後、冬十月乙丑朔壬申の「天皇立於大殿前譽津別皇子侍之時有鳴鵠度大虚」、十一月甲午朔乙未の「湯河板擧獻鵠也譽津別命弄是鵠」と正しい日干支で記述される。大新河によって、譽津別は師木に追放され、吉備の日干支で亡くなったようだ。

前5年垂仁廿五年春二月丁巳朔甲子は正しい日干支で、「今當朕世祭祀神祇豈得有怠乎」と天皇が交代した。日葉酢媛の夫の八坂入彦が崩じて山代之大筒木眞若(五十瓊敷入彦)が即位したと考えられる。そのため、三月丁亥朔丙申と正しい日干支の「離天照大神於豐耜入姫命託干倭姫命」と、皇后が豐耜入姫(日葉酢媛)から倭姫に交代した。

前4年垂仁廿六年秋八月戊寅朔庚辰も正しい日干支で、「天皇勅物部十千根大連曰屡遣使者於出雲國雖検校其國之神寶」と十千根(大根)が天皇の璽を管理する地位になった。『舊事本紀』には西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔に「五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」との記述があるが、既に大連になっているので、前の項で述べたように、前30年に大連に賜姓されたと考えた方が正しいようだ。

前3年垂仁廿七年秋八月癸酉朔己卯は九州・吉備の日干支なので、大新河の配下の記録で、「令祠官卜兵器爲神幣吉之故弓矢及横刀納諸神之社」と師木朝廷との戦いの準備を始めたのだろうか。前2年垂仁廿八年冬十月丙寅朔庚午は正しい日干支の「天皇母弟倭彦命薨」の記事は、倭が「あま」で尾張大海媛、『舊事本紀』は尾張大倭媛とも記述するので倭彦は大倭媛(大海媛)の子孫だろう。天皇大筒木眞若(五十瓊敷入彦)の母は日葉酢媛(豐耜入姫)であり、御上神社で大神を祀った。弟が倭彦(2代目大根・同母弟伊理泥)、その娘が倭姫で大筒木眞若の妃、『古事記』では丹波能阿治佐波毘賣と呼ばれたと考えられる。十一月丙申朔丁酉も正しい日干支で、「葬倭彦命于身狹桃花鳥坂於是集近習者」と記述され、御上神社の近くに武佐町がある。師木王朝の記録だ。

 

年候補

壬子 -2212月朔日 -972月朔日 -302月朔日 -42月朔日

2025年9月10日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇2

  前26年垂仁四年秋九月丙戌朔戊申に「皇后母兄狹穗彦王謀反欲危社稷」と記述される。狹穗姫は纏向の皇后なので、大和神社を創建した淳名城入姫に比定される。「皇后母兄狹穗彦王」と皇后の淳名城入姫の母の大海媛の兄の建諸隅が狹穗彦と記述する。

崇神六十五年に大連に即位した建諸隅が狹穗彦だろう。大和神社は大國魂神を祀り、市磯長尾市が大國魂を祀ったので、狹穗姫の子の譽津別の後裔は市師宿祢の祖の穴太足尼、穴太宮天皇と考えられる。

前25年垂仁五年冬十月己卯朔に『舊事本紀』「狹穗彦與妹皇后共死」と天皇の狹穗彦(2代目も)は崩じた。狹穗彦が天皇になっても遷都していないので、狹穗彦は師木の天皇である。しかし、前23年垂仁七年秋七月己巳朔乙亥の「左右奏言當麻邑有勇悍士曰當麻蹶速」とあるように騒乱があった。後継者の八坂入彦が纏向天皇と争ったのだろう。そして、前15年垂仁十五年春二月乙卯朔甲子に「喚丹波五女納於掖庭」、秋八月壬午朔の「立日葉酢媛命爲皇后」とあるように、皇后が代わった。丹波の姫なのだから、首都は師木なので、師木の天皇が交代した。

垂仁天皇の妹の日葉酢媛・豐耜入姫が師木の皇后と考えられ、前5年垂仁廿五年三月丁亥朔丙申の「離天照大神於豐耜入姫命託干倭姫命」の記事は倭姫の夫と考えられる五十瓊敷入彦に天皇が代わったのだろう。豐城入彦は崇神六十五の「武諸隅命為大連」の時に太子、垂仁元年に天皇なので、廿五年後に義兄弟の八坂入彦もかなり老齢になっていたと考えられる。垂仁十五年の日葉酢媛皇后も、2代目なのだろうか。

『舊事本紀』は前7年垂仁二十三年秋八月丙申朔已亥に「大新河命為大臣」、丁巳に「大新河命賜物部連公姓即改大臣号大連」と、纏向珠城宮の大連に就いた。この日干支は7月朔日の日干支、他の候補として、9月2日、紀元25年垂仁五十四年がある。妃が木国造りの荒川戸俾の娘、豐城入彦の母も紀伊國荒河戸畔の娘なので、豐城入彦を継承したのだろう。苅幡戸邊の子の祖別は兄弟に五十日足彦(伊香色雄の後継)が存在し、大新河にピタリの人物だ。豐城入彦の年齢から考えれば、吉備の記録で、垂仁二十三年前7年9月2日の朔の日干支でよさそうだ。(8月は29日までで9月1日が晦日)

 

日干支候補

「垂仁二十三年秋八月丙申朔」-77月朔1日 丙申に対する-789月の日干支

7月晦日30日 乙丑 8月朔1日 丙寅 82日 丁卯

8月晦日29日 甲午 9月朔1日 乙未 92日 丙申

2025年9月8日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇1

    纒向珠城宮の天皇は豐城入彦だと思われるが、前69年崇神廿九年春正月己亥朔に「生於瑞籬宮」と生まれた。この生まれならば、42歳で皇后を迎え、後継者を生んだことになる。奇異であるが、崇神四十八年春正月己卯朔戊子の太子選びが13歳以上になっていないとまずいからだろう。立太子は倭国の王朝交代で、太子は13歳以上、成人していないと皇位を継承できないからである。

実際は崇神六十五年春正月の武諸隅命為大連の時に太子の豐城入彦は十三歳以上で垂仁元年に二十歳以上である必要があり、崇神五十年以前に生まれていないと理に適わない。私は、四十八年春正月己卯朔戊子の相続競争が生まれた年ではと考えている。それで、前38年に豐城入彦が太子の年齢に、武諸隅が出雲の神宝を得て前29年皇位に、豐城入彦は纒向に王朝を建てたのではないだろうか。

垂仁天皇は前29年垂仁元年春正月丁丑朔戊寅に「皇太子即天皇位」と即位しているが、この日干支は九州や吉備の日干支である。前天皇の埋葬も『舊事本紀』『日本書紀』は「明年秋八月甲辰朔甲寅葬于山邊道上陵」、『日本書紀』では垂仁紀にも「冬十月癸卯朔癸丑葬御間城天皇於山邊道上陵」と2度目の異なる記述をしている。「八月甲辰朔」が九州の日干支ならば、2日が甲辰となるのは10月なので、『日本書紀』の垂仁紀は間違えたのだろうか。さらに、「尊皇后曰皇太后」も垂仁元年十一月壬申朔は晦の九州・吉備の日干支で、纒向珠城宮に遷都するまで豐城入彦の記録は出雲神社の記録だった可能性が高い。

『舊事本紀』の西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔の日干支は間違いの日干支で、「五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」と大連(天皇)に即位したと記述された。しかし、正しい日干支の年は垂仁元年の前年の紀元前30年にあたり、十市根の父の大根(狹穗彦)が師木水垣宮の天皇に即位したと考えられる。

狹穗彦は『日本書紀』に、前33年崇神六十五年秋七月「天皇踐祚」と崇神天皇から皇位を譲られた。そして、豐城入彦は前28年垂仁二年春二月辛未朔己卯に「立狹穗姫爲皇后后生譽津別命」と狹穗姫は纒向珠城宮皇后となった。狹穗姫は大和神社を創建した渟名城入姫である。

 

年候補

己亥 -9612月晦日 -691月朔 -3912月晦日 -331月晦日-121月朔

壬子 -2212月朔日 -972月朔日 -302月朔日 -42月朔日

298月朔日前後

 7月晦日29日壬寅 8月朔1日癸卯 82日甲辰

2910月朔日前後

 9月晦日30壬寅 10月朔1日癸卯 102日甲辰