2025年9月29日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇4

  景行廿年春二月辛巳朔甲申は間違いの日干支で西暦116年景行四十六年と考えられる。「遣五百野皇女令祭天照大神」とあるように、伊勢遺跡の皇大神宮を三尾君の始祖の磐衝別と兩道入姫の子の磐城別の妹、兩道姫の妹の五百野皇女が倭姫に替わって祀ったようだ。

景行廿五年秋七月庚辰朔壬午は正しい日干支だが、武内宿禰は成務三年、大臣になったのであるから、凡そ110年以降でないと理に適わない。「<景行天皇1>の項で西暦109年景行五十年に九州・吉備の暦で武内宿禰が生まれたと結論付けた。それを考えれば、成務元年西暦131年6月30日の日干支が相応しい記事が「遣武内宿禰令察北陸」で、成務三年131年に大臣になった。ただし、実際の大臣は物部胆咋宿祢で、武内大臣なら319年だろう。

景行廿七年春二月辛丑朔壬子の「武内宿禰自東國還之奏言」は間違いの日干支である。東国に関しては、景行五五年二月戊子朔壬辰に東国の都督を賜姓している。この景行五五年二月戊子朔も間違いの日干支で151年成務二十一年が相応しい。すると、景行廿七年二月辛丑朔は128年景行五十八年が相応しく、大臣が128年に東國視察、131年北陸視察、151年に彦狹嶋を「東山道十五國都督」に賜姓した。

景行二七年冬十月丁酉朔己酉も間違いの日干支で、128年と195年とを併せた記事と考えられる。128年に膽咋が弟彦(大玉)を後ろ盾に高穴穗宮に婿入りし、131年成務元年大臣になった。そして、195年に仲哀天皇が「撃熊襲」と熊襲と戦ったと考えられる。

景行廿八年春二月乙丑朔も間違いの日干支で、191年、仲哀元年の前年に日向襲津彦から和訶奴氣が襲津彦の名を襲名して、仲国王・帯中日子になったと考えられる。熊襲建の名前を貰ったのではなく、襲津彦の名を貰ったと考えられる。

 

年候補

癸酉2月朔日 45年 138年 169年 195年 262年 319年 386

辛巳2月朔日 -71年 116年 209

辛丑2月朔日 4年 128年 190年 247年 314

戊子2月朔日 27年 94年 151年 218年 244年 275

丁酉10月朔日 4年 35年 128年 195年 221年 252年 345年 

乙丑2月朔日 67年 124年 191年 248年 377年 

2025年9月26日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇3

  景行「十八年春三月天皇將向京以巡狩筑紫國」は西暦181年成務五十一年に日向から京都郡にいったことを記した。京都郡近辺を筑紫と呼んでいるので、筑前を筑紫と呼んだのだろう。日向高屋の王は諸縣君、後裔は諸縣君牛諸井、葛木天皇の後ろ盾である。夏四月壬戌朔甲子は正しい日干支であるが、やはり、西暦181年4月朔の日干支と考えられる。

4月3日球磨郡の弟熊を誅殺して兄熊を配下に、11日水嶋を支配下とした。五月壬辰朔も西暦181年5月朔日で、「市鹿文賜於火國造」とあるように、葦北を首都に市鹿文を国造に任せた。『後漢書』の「女王國東度海千餘里至拘奴國」の拘奴國から『三國志』の「女王之南又有狗奴國」の狗奴國なのだろうか。領地は熊縣、水嶋、葦北、さらに、阿蘇國、御木國、八女國、浮羽も含み、もちろん、元々の領地の追認だろう。

神功皇后は御笠に陣を張って、熊襲(狗奴國)と戦い、層増岐野、山門縣が戦場であった。山門縣は八女の西、御木(三池)の北で、この地が反抗する最後の狗奴國である。六月辛酉朔癸亥の日干支は正しいのだが、「自高來縣渡玉杵名邑」は181年5月30日が相応しい。秋七月辛卯朔甲午の日干支は間違いの日干支で、「到筑紫後國御木」も181年が相応しい。

景行十九年秋九月甲申朔癸卯も正しい日干支であるが、これも一連の説話と考えれば、182年10月か187年9月である。187年では少々間延びしている。213年9月も候補になるが、この場合は卑弥呼の凱旋で日向の高千穂へ行ったことになる。

仲哀九年に山門縣の田油津媛と田油津媛の兄の夏羽と戦っているが、朔日の日干支が記述されていないため、いつの説話か不明である。夏磯媛・卑弥呼と姻戚関係かと考えられる夏羽との戦いなのだから、熊襲梟と市鹿文の姉の市乾鹿文との戦いの可能性が高い。火國造が夏磯媛卑弥呼の宗家、市鹿文の孫あたりが壹輿なのだろう。

 

年候補

壬戌4月朔日 88年 181年 212

壬辰5月 88年 119年 181年 212

辛酉5月晦日 155529日 181530日 248529

辛卯7月 119年 181年 248

 

甲申9月朔日 187年 213年 244年 

甲申8月晦日 156年 280

甲申朔日 1777月 18210月 1879

2025年9月24日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇2

景行十二年秋七月の「熊襲反之不朝貢」は倭國が朝貢しなかったことを意味する。以降は九州の記事である。神武即位前の冬十月丁巳朔辛酉は景行三十九年西暦109年が相応しく、「汝誰也對曰臣是國神名曰珍彦」と、おそらく、倭者師木登美豐朝倉の曙立王が和迩君の祖の阿田賀田須の後裔の武日を従えて、景行三十七年西暦107年、漢に朝貢した倭國王帥升を倒したのだろう。 

神武天皇即位前紀甲寅年十二月丙辰朔の「至安藝國」記事は成務三十六年西暦166年が相応しく、拘奴國王(豐国王)の日臣武日が安芸王になったと考えられる。景行十二年八月乙未朔己酉は正しい日干支だが、『後漢書』の「桓靈間倭國大亂」とあるように、西暦146から188年の間の185年成務五十五年に一旦休戦したのだろう。「幸筑紫」と倭国に行幸した。九月甲子朔戊辰、この日干支は175年8月晦と考えられ、「豐前國長峽縣」を破って、「故號其處曰京也」と拘奴國の首都を遷した。『三国史記』や『後漢書』の卑弥呼記事に符合するように、夏磯媛も記述した。周芳筑紫豊前は方向がバラバラで、理に適わず、首都を遷したあとの休戦交渉で筑紫の倭王と面談したのなら、筋が通る。十二月癸巳朔丁酉も175年11月晦日、「議討熊襲」と熊襲を撃つ相談をしている。「仍以弟市鹿文賜於火國造」は壹輿の祖母か曾祖母、卑弥呼(夏磯媛)の宗家である。

景行十三年夏五月に「居於高屋宮已六年也」と記述するが、戦いが始まったのは景行十二年で景行八年から首都に4年いた。ところが、175年からなら6年で180年、高屋宮に居住し続けたのなら、符合する。そして、景行十七年春三月戊戌朔己酉は正しい日干支だが、実際は成務五十年西暦180年2月30日なのだろう。「故號其國曰日向也」と大伴氏は日向を支配下にした。

 

年候補

丁巳 10月朔 -636 -543 -512 -450 -419 -393 -326 -295 -233 -202 -109 -16 16 42 109 166 202 233 290 326 352

丙辰 12月朔 -636 -512 -450 -393 -326 -269 -202 -145 -16 42 109 166 233 290 352 

乙未 7月晦日 25 118 185 211 

甲子9月晦日 25 149 175 211

癸巳11月晦日 118 175 243

戊戌2月晦日 56 149 180 273

2025年9月22日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇1

  『舊事本紀』は西暦71年「元年歳次辛未秋七月皇太子尊即天皇位」と『日本書紀』が元年秋七月己巳朔卯己卯と記述するのと異なり日干支を記述しない。天皇の即位年の基準となる朔の日干支を記述できないのは、異なる王朝の記事だからと考えられる。すなわち、『舊事本紀』に日干支が記述される出来事は、他王朝の記録の可能性が高い。日干支を知っているのに記述せず、気が向くと記述するなどということは考えられない。知識は惜しみなく表記して、優位であることを示す。知っていることはすべて書き、日干支を知らないから書けなかった。

西暦72年、景行二年春三月丙寅朔戊辰の日干支は正しいが、二月は小の月29日までなので、二月の晦日(30日目)が丙寅の吉備・九州の暦だったと考えられる。「立播磨稻日大郎姫」は播磨の姫なのだから、大帯日子の説話と考えられ、吉備・九州の暦である。

西暦73年景行三年春二月庚寅朔も吉備の暦の1月30日の日干支で、「卜幸于紀伊國將祭祀群神祇・・・遣屋主忍男武雄心」と記述される。しかし、武内宿禰は稚足彦の時に大臣になっている。『古事記』の稚足彦は355年崩なので、吉備の暦で290年が相応しい。屋主忍男武雄心は吉備での名が少彦男心で、比古布都押之信の分家と考えられる。

景行四年春二月甲寅朔甲子は正しい日干支であるが、「仍喚八坂入媛爲妃」は世代が異なる。八坂入媛は八坂入彦の娘なのだから、前15年に皇后になった日葉酢媛の娘(大中姫)なので、西暦7年垂仁三十六年が相応しい。纏向朝とは別系統の師木・穴太の朝廷の説話である。垂仁八十七年に十千根が婿入りするまでの51年間は八坂入媛の娘と、五十瓊敷の皇子との婚姻で朝廷を継承したのだろう。冬十一月庚辰朔の正しい日干支の「則更都於纒向是謂日代宮」は前項で述べた景行天皇の遷都、景行元年は穴太への遷都と考えられた。纏向(垂仁・景行)朝は大新河大連が天皇だ。

 

年候補

庚寅

104年 2月朔 ・・・2月朔 290 1月晦 321年 2月朔 347年 2月朔

甲寅

7年 2月朔 74年 2月朔 100年 2月朔 131年 2月朔

2025年9月19日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇6

天皇崩於纒向宮」、垂仁天皇の崩御の西暦70年垂仁九十九年秋七月戊午朔は間違いの日干支である。『舊事本紀』は西暦70年垂仁九十九年秋七月戊子朔と記述している。異なる日干支を記述していて、『日本書紀』の日干支は西暦73年6月が該当する。そして、『舊事本紀』の日干支も73年の7月の日干支で間違っているが、纏向朝廷は物部氏の大新河の朝廷なので、『舊事本紀』が正確と考えられる。『日本書紀』と『舊事本紀』が異なる日干支を記述するのは2朝廷が存在し、74年に遷都しているので、73年の垂仁天皇の崩御は相応しい。西暦70年垂仁九十九年秋七月戊午朔は73年の8月2日の可能性が高い。7月は29日までの小の月で、8月1日が晦日()、それを2日が朔日と考えたのだろうか。

それに対して、西暦70年冬十二月癸卯朔壬子の日干支が正しい「葬於菅原伏見陵」の記事は対応する73年だった間違いの日干支と矛盾がある。そして、西暦71年景行元年秋七月己巳朔卯己卯も正しい日干支で、「太子即天皇位因以改元」とある。すなわち、師木天皇の五十瓊敷は景行即位前紀に「九十九年春二月活目入彦五十狹茅天皇崩」と6月でも7月でもない2月に崩じた。五十瓊敷を西暦70年12月に陵墓へ埋葬し、十千根大連が天皇になって、穴太に翌年遷都して、改元したのだろう。

『二中暦』に継体元年517年以前に「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干」と記述された。紀元前53年に元号が始まったが、当然、師木朝廷の元号である。埋葬場所は菅原伏見陵で、野洲には古社に菅田神社、現代に菅原神社が存在する。桜井市の菅原神社は山の中だ。

71年 明年(景行天皇元年辛未)春三月辛未朔壬午は九州の日干支で「田道間守至自常世國」と記述する。田道間守が持ち帰った「非時香菓」は萩市に自生している。萩は拘奴國の領域なのだから、九州の暦に矛盾がない。

2025年9月17日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇5

  西暦58年垂仁八十七年春二月丁亥朔辛卯も正しい日干支で、記事は「五十瓊敷命謂妹大中姫曰我老也不能掌神寶」とある。天皇五十瓊敷(大筒木眞若)が妹の大中姫(八坂八坂入媛)に天皇の璽を委譲した記事だろう。そして、「大中姫命授物部十千根大連而令治」と夫の十千根に天皇の璽を委譲した。十千根が最高実力者になった。

十千根は穴太足尼、穴太に遷都した天皇、纏向天皇にとっては足尼である。『日本書紀』では、正統な政権が纏向政権だが、大臣・大連を記述せず、内容は『古事記』と同じように、師木から高穴穂への政権を記述している。景行天皇が『日本書紀』上では、景行五八年に、まだない高穴穂宮に遷っている。『日本書紀』通りなら、何もない高穴穂に行って、3年間掛かって高穴穂宮を造ったことになる。ところが、それ以前に、ないはずの穴太足尼が存在するのだから、垂仁八十七年にまだ首都纏向でない首都穴太宮があっても不都合はない。高穴穂宮は60年より長い107年続いたと『日本書紀』で記述している。すなわち、景行13年から穴太に分家の大玉の宮(高穴穂宮)が存在した可能性が高い。

西暦59年垂仁八十八年秋七月己酉朔戊午も正しい日干支で、「新羅王子天日槍初來之時將來寶物今有但馬」。61年垂仁九十年春二月庚子朔も正しい日干支で「天皇命田道間守遣常世國令求非時香菓」と記述される。正しい日干支なのだから、穴太足尼の外交で、娘が比咩古、纏向皇后の五十琴姫の母である。すなわち、纏向の王の夫である膽咋が穴穂に逃れ、女王比咩古が纏向を治めたのだろう。

その結果が『三国史記』の173年、「阿達羅尼師今・・・二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」や『後漢書』の189年以降の「桓・靈閒 倭國大亂・・・有一女子名曰卑彌呼」と考えられる。比咩古という名は『後漢書』の卑弥呼と無関係とは思えない。

2025年9月15日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇4

西暦1年垂仁卅年春正月己未朔甲子は正しい日干支の、「天皇詔五十瓊敷命大足彦尊曰汝等各言情願之物也」と皇位継承の記述がある。この記事は垂仁廿八年に薨じた倭彦を後継した五十瓊敷入彦が継承したのだろうか。弓矢は天皇の璽の象徴、それを五十瓊敷入彦は大中姫に継承させた。朝廷の統治を五十瓊敷、大足彦が敗れて大国王になった。結果的に大足彦は播磨稻日大郎が住む播磨入りしていて、五十瓊敷に敗れている。大足彦が播磨に入って、大国が琵琶湖から西へ移動した。

西暦3年垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯は正しい日干支で「皇后日葉酢媛命薨」の記事である。それに続く、5年垂仁卅四年春三月乙丑朔丙寅も正しい日干支の「先是娶山背苅幡戸邊」と皇太后が代わった。苅幡戸邊が倭彦の妃、綺戸邊が倭比賣なのだろうか。

西暦8年垂仁卅七年春正月戊寅朔は九州の日干支で、「立大足彦尊爲皇太子」は九州倭国の王朝交代である。

『舊事本紀』の西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔に該当する朔日近辺の日干支は全く無い。記事は「十市根命賜姓物部連公即為大連」、十市根が天皇になった。十市根大連はすでに垂仁二六年にも記述されて、これ以前にある該当する日干支は紀元前30年崇神三十年が相応しかった。『舊事本紀』独自の記述は九州や吉備の日干支は考えられない。

紀元前30年に十市根、世代的に大根が天皇になったのだが、既に、崇神六十五年に武諸隅が大連になっている。ところが、この武諸隅は尾張氏の建諸隅で、物部氏の武諸隅ではないので、『舊事本紀』は十市根を記述し、おそらく、垂仁八十一年に十市根が八坂入媛の婿になったのだろう。紀元前30年は纏向朝と師木朝が分裂した年である。

 

年候補

壬子2月朔日 -221年 -97年 -30年 -4年 28年 95年閏2

2025年9月12日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇3

    大新河が纏向朝廷を引き継ぐ前の月、前7年垂仁廿三年秋九月丙寅朔丁卯は九州や吉備の暦と考えられ、8月の事績である。「詔群卿曰譽津別王是生年既卅髯鬚八掬」と譽津別の記録だ。ところが、9月に大新河の即位後、冬十月乙丑朔壬申の「天皇立於大殿前譽津別皇子侍之時有鳴鵠度大虚」、十一月甲午朔乙未の「湯河板擧獻鵠也譽津別命弄是鵠」と正しい日干支で記述される。大新河によって、譽津別は師木に追放され、吉備の日干支で亡くなったようだ。

前5年垂仁廿五年春二月丁巳朔甲子は正しい日干支で、「今當朕世祭祀神祇豈得有怠乎」と天皇が交代した。日葉酢媛の夫の八坂入彦が崩じて山代之大筒木眞若(五十瓊敷入彦)が即位したと考えられる。そのため、三月丁亥朔丙申と正しい日干支の「離天照大神於豐耜入姫命託干倭姫命」と、皇后が豐耜入姫(日葉酢媛)から倭姫に交代した。

前4年垂仁廿六年秋八月戊寅朔庚辰も正しい日干支で、「天皇勅物部十千根大連曰屡遣使者於出雲國雖検校其國之神寶」と十千根(大根)が天皇の璽を管理する地位になった。『舊事本紀』には西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔に「五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」との記述があるが、既に大連になっているので、前の項で述べたように、前30年に大連に賜姓されたと考えた方が正しいようだ。

前3年垂仁廿七年秋八月癸酉朔己卯は九州・吉備の日干支なので、大新河の配下の記録で、「令祠官卜兵器爲神幣吉之故弓矢及横刀納諸神之社」と師木朝廷との戦いの準備を始めたのだろうか。前2年垂仁廿八年冬十月丙寅朔庚午は正しい日干支の「天皇母弟倭彦命薨」の記事は、倭が「あま」で尾張大海媛、『舊事本紀』は尾張大倭媛とも記述するので倭彦は大倭媛(大海媛)の子孫だろう。天皇大筒木眞若(五十瓊敷入彦)の母は日葉酢媛(豐耜入姫)であり、御上神社で大神を祀った。弟が倭彦(2代目大根・同母弟伊理泥)、その娘が倭姫で大筒木眞若の妃、『古事記』では丹波能阿治佐波毘賣と呼ばれたと考えられる。十一月丙申朔丁酉も正しい日干支で、「葬倭彦命于身狹桃花鳥坂於是集近習者」と記述され、御上神社の近くに武佐町がある。師木王朝の記録だ。

 

年候補

壬子 -2212月朔日 -972月朔日 -302月朔日 -42月朔日

2025年9月10日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇2

  前26年垂仁四年秋九月丙戌朔戊申に「皇后母兄狹穗彦王謀反欲危社稷」と記述される。狹穗姫は纏向の皇后なので、大和神社を創建した淳名城入姫に比定される。「皇后母兄狹穗彦王」と皇后の淳名城入姫の母の大海媛の兄の建諸隅が狹穗彦と記述する。

崇神六十五年に大連に即位した建諸隅が狹穗彦だろう。大和神社は大國魂神を祀り、市磯長尾市が大國魂を祀ったので、狹穗姫の子の譽津別の後裔は市師宿祢の祖の穴太足尼、穴太宮天皇と考えられる。

前25年垂仁五年冬十月己卯朔に『舊事本紀』「狹穗彦與妹皇后共死」と天皇の狹穗彦(2代目も)は崩じた。狹穗彦が天皇になっても遷都していないので、狹穗彦は師木の天皇である。しかし、前23年垂仁七年秋七月己巳朔乙亥の「左右奏言當麻邑有勇悍士曰當麻蹶速」とあるように騒乱があった。後継者の八坂入彦が纏向天皇と争ったのだろう。そして、前15年垂仁十五年春二月乙卯朔甲子に「喚丹波五女納於掖庭」、秋八月壬午朔の「立日葉酢媛命爲皇后」とあるように、皇后が代わった。丹波の姫なのだから、首都は師木なので、師木の天皇が交代した。

垂仁天皇の妹の日葉酢媛・豐耜入姫が師木の皇后と考えられ、前5年垂仁廿五年三月丁亥朔丙申の「離天照大神於豐耜入姫命託干倭姫命」の記事は倭姫の夫と考えられる五十瓊敷入彦に天皇が代わったのだろう。豐城入彦は崇神六十五の「武諸隅命為大連」の時に太子、垂仁元年に天皇なので、廿五年後に義兄弟の八坂入彦もかなり老齢になっていたと考えられる。垂仁十五年の日葉酢媛皇后も、2代目なのだろうか。

『舊事本紀』は前7年垂仁二十三年秋八月丙申朔已亥に「大新河命為大臣」、丁巳に「大新河命賜物部連公姓即改大臣号大連」と、纏向珠城宮の大連に就いた。この日干支は7月朔日の日干支、他の候補として、9月2日、紀元25年垂仁五十四年がある。妃が木国造りの荒川戸俾の娘、豐城入彦の母も紀伊國荒河戸畔の娘なので、豐城入彦を継承したのだろう。苅幡戸邊の子の祖別は兄弟に五十日足彦(伊香色雄の後継)が存在し、大新河にピタリの人物だ。豐城入彦の年齢から考えれば、吉備の記録で、垂仁二十三年前7年9月2日の朔の日干支でよさそうだ。(8月は29日までで9月1日が晦日)

 

日干支候補

「垂仁二十三年秋八月丙申朔」-77月朔1日 丙申に対する-789月の日干支

7月晦日30日 乙丑 8月朔1日 丙寅 82日 丁卯

8月晦日29日 甲午 9月朔1日 乙未 92日 丙申

2025年9月8日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇1

    纒向珠城宮の天皇は豐城入彦だと思われるが、前69年崇神廿九年春正月己亥朔に「生於瑞籬宮」と生まれた。この生まれならば、42歳で皇后を迎え、後継者を生んだことになる。奇異であるが、崇神四十八年春正月己卯朔戊子の太子選びが13歳以上になっていないとまずいからだろう。立太子は倭国の王朝交代で、太子は13歳以上、成人していないと皇位を継承できないからである。

実際は崇神六十五年春正月の武諸隅命為大連の時に太子の豐城入彦は十三歳以上で垂仁元年に二十歳以上である必要があり、崇神五十年以前に生まれていないと理に適わない。私は、四十八年春正月己卯朔戊子の相続競争が生まれた年ではと考えている。それで、前38年に豐城入彦が太子の年齢に、武諸隅が出雲の神宝を得て前29年皇位に、豐城入彦は纒向に王朝を建てたのではないだろうか。

垂仁天皇は前29年垂仁元年春正月丁丑朔戊寅に「皇太子即天皇位」と即位しているが、この日干支は九州や吉備の日干支である。前天皇の埋葬も『舊事本紀』『日本書紀』は「明年秋八月甲辰朔甲寅葬于山邊道上陵」、『日本書紀』では垂仁紀にも「冬十月癸卯朔癸丑葬御間城天皇於山邊道上陵」と2度目の異なる記述をしている。「八月甲辰朔」が九州の日干支ならば、2日が甲辰となるのは10月なので、『日本書紀』の垂仁紀は間違えたのだろうか。さらに、「尊皇后曰皇太后」も垂仁元年十一月壬申朔は晦の九州・吉備の日干支で、纒向珠城宮に遷都するまで豐城入彦の記録は出雲神社の記録だった可能性が高い。

『舊事本紀』の西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔の日干支は間違いの日干支で、「五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」と大連(天皇)に即位したと記述された。しかし、正しい日干支の年は垂仁元年の前年の紀元前30年にあたり、十市根の父の大根(狹穗彦)が師木水垣宮の天皇に即位したと考えられる。

狹穗彦は『日本書紀』に、前33年崇神六十五年秋七月「天皇踐祚」と崇神天皇から皇位を譲られた。そして、豐城入彦は前28年垂仁二年春二月辛未朔己卯に「立狹穗姫爲皇后后生譽津別命」と狹穗姫は纒向珠城宮皇后となった。狹穗姫は大和神社を創建した渟名城入姫である。

 

年候補

己亥 -9612月晦日 -691月朔 -3912月晦日 -331月晦日-121月朔

壬子 -2212月朔日 -972月朔日 -302月朔日 -42月朔日

298月朔日前後

 7月晦日29日壬寅 8月朔1日癸卯 82日甲辰

2910月朔日前後

 9月晦日30壬寅 10月朔1日癸卯 102日甲辰