2023年1月18日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』用明天皇類書

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱橘豐日尊者天國排開廣庭天皇第四之子也母曰皇后堅鹽媛天皇信佛法尊神道十四年秋八月渟中倉太珠敷天皇崩九月甲寅朔戊午天皇即天皇位都於磐余謂池邊雙槻宮物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣元年歳次丙午春正月壬子朔穴穗部間人皇女立爲皇后生四男其一日廄戶皇子更名豐聡耳聖徳皇子或名豐聡耳法大王亦名法主王初居上宮後移斑鳩於豐御食炊屋天皇世位居東宮摠攝万機行天皇事語見豐御食炊屋姫天皇記二日來目皇子三日殖栗皇子四日茨田皇子立蘇我大臣稻目宿祢女石寸名為嬪生一男田目皇子更名豐浦皇子葛城直磐村女廣子生一男一女男日麿子皇子當麻公祖女曰酢香手姬皇子二年夏四月乙巳朔丙午御新嘗於磐余河上是日天皇得病還入於宮群臣侍焉天皇詔群臣曰朕思欲歸三寶卿等議之群臣入朝而議物部守屋大連與中臣勝海連違詔議曰何背國神敬他神也由來不識若斯事矣蘇我馬子宿祢大臣曰可隨詔而奉助詎生異計矣癸丑天皇崩于大殿秋七月甲戌朔甲午葬于磐余池上陵天皇(?)生皇子七六男一女」、【諱は橘豊日、天國排開廣庭天皇の第四子で母は皇后の堅塩媛といい、天皇は仏法を信じ、神道を尊んだ。十四年秋八月、渟中倉太珠敷が崩じ、九月甲寅朔戊午、即位し、磐余の地に都を造り、池辺双槻宮といった。物部弓削守屋を大連とし、また大臣とした。治世元年丙午の春一月壬子朔、穴穂部間人皇女皇后とし、(以下略)二年夏四月乙巳朔丙午、磐余の河上で、新嘗が行われ、この日、天皇は病にかかり、宮中に帰り、群臣が侍った。天皇は群臣に「私は仏法僧の三宝に帰依したいと思う。卿らにこのことを考えてほしい」と言った。群臣は参内して相談し、物部守屋と中臣勝海は勅命の会議で「どうして国の神に背いて、他の神を敬うのか。もとより、このようなことは聞いたことがない」と反対した。蘇我馬子は「詔に従って、助ける。誰がそれ以外の相談をすることがあろうか」と拒んだ。癸丑、天皇は大殿で崩じた。秋七月甲戌朔甲午、磐余池上陵に葬った。(以下略)】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「()橘豊日命王坐池邊宮治天下参三歳此天皇娶稲目宿祢大臣之女意富藝多志比賣生御子多米王一柱又娶庶妹間人穴太部王生御子上宮之厩戸豊聡耳命次久米王次植栗王次茨田王四柱又娶當麻之倉首比呂之女飯女之子生御子當麻王次妹須加志呂古郎女此天皇(丁未年四月十五日崩)御陵在石才()掖上後遷科長中陵也」とあり、訳は略す。

橘豊日を馬子と述べてきたが、実際の天皇は譯語田宮大連御狩の子が磯城嶋宮目大連と矛盾し、磐余の天皇が池邊宮目連とわかり、その目連の政権を継承したのが「穴穂部皇子欲取天下」の母系で目連の家系の穴穗部皇子で、その皇太子が2代目穴穗部の守屋と思われる。

馬子は『日本書紀』「推古天皇三四年夏五月戊子朔丁未大臣薨」と626年に死亡とあり、また、『上宮聖徳法王帝説』「曾我大臣推古天皇卅四年秋八月嶋大臣臥病」と死んだ大臣が病気になるのは矛盾していて、馬子と嶋は別人で、子の嶋が641年薨なら親の馬子が626年薨は理に適う。

又本云廿二年甲戌秋八月大臣病臥云云卅五年夏六月辛丑薨云云」、『隅田八幡神社人物画像鏡』「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」と623年に嶋が彦人の義弟竹田王と思われる王と同盟し、「卅五年・・・辛丑薨」と627年死亡は、626年に6月辛丑が無くしかも嶋が生きているので記述したと思われ、恐らく、実際は、嶋は641年に死亡し、飛鳥天皇が嶋で皇太子が蝦夷だったと思われる。

また、守屋の乱で中臣勝海が裏切って彦人の水派宮に向かうので、彦人の名が押坂と言うように、押坂で生れていて、623年に押坂宮を男弟王に譲って水派宮に遷ったと考えられ、しかも、守屋の子雄君は飛鳥浄御原宮の時に大紫冠位を得、雄君は620年頃の生れと考えられ、守屋は600年ころの生まれとなり、守屋の乱は40年近く後の623年以降に発生したことが解る。

2023年1月16日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』敏達天皇類書3

   『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』は「治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也」とある。

この出土地は熊本県で、俀國か倭國の品と考えられ、「獲□□□鹵大王」を私は倭・豊の王の稲目の父の武小廣國押盾・馬背宿祢と億計天皇の娘の橘仲皇女の子の上殖葉皇子、この皇子は『古事記』で記述されず、恐らく蘇我倉王の父で初代稲目と考えた。

宣化天皇の項で大村の初授が「後清原聖朝」、これは、695年以降のことで、大宝元年に「擢卿除小納言」と真人の姓を得て、従五位下の小納言に抜擢され、前清原聖朝では不遇若しくは別格な人物だったと考えられ、「後岡本聖朝紫冠威奈鏡公」は672年「自嶋宮移岡本宮」の岡本聖朝と思われ、兄と思われる「猪名眞人石前」は703年『続日本紀』に正五位下の初出で714年に薨じた。

上殖葉は『古事記』には記述が無く、稚綾姫の子で2代目稲目に振り分けたと思われて、また、『大村骨臓器銘文』に「五百野宮御宇天皇之四世」とあり、大村は707年死亡、672年「大紫韋那公高見薨」の高見が鏡公なら、大村が第三子なので第1子は650年代生れ、三世の鏡公は630年頃の生れなので、早くとも上殖葉は590から610年頃と考えられるため、年代では合致せず、上殖葉が2代存在したように、金刺宮の時の皇子上殖葉の稲目は二代目だが同じ役職なら一世代とする理解のためである。

従って、『大村骨臓器銘文』の言う一世が五百野宮と金刺宮の稲目大臣天國排開廣庭で570年「稻目宿禰薨」によって二代目稲目の上殖葉の子の初代幸玉宮天皇渟中倉太珠敷が『大村骨臓器銘文』の言う二世で、『大村骨臓器銘文』の言う三世が押坂彦人・鏡王、額田の娘の小墾田皇女か櫻井玄王の子が大村と鏡姫で、『日本書紀』「鏡王女額田姫王生十市皇女」、『粟原寺鑪盤銘』「爾故比賣朝臣額田」と豐御食炊屋姫の額田を継承している。

『粟原寺鑪盤銘』には「此粟原寺者仲臣朝臣大嶋惶惶誓願奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮故造伽檻之爾故比賣朝臣額田以甲午年始至和銅八年」とあり、訳は略すが、粟原寺は「甲午年始」と694年創建で「浄御原宮天下天皇」の天智天皇のために、東宮日並は弘文天皇、義母が額田姫で天武天皇のクーデタは701年の文武天皇のクーデタと考えられ、683年まで続く白鳳年号を改元したのは683年死亡の鏡姫と考えている。

『興福寺流記』に「嫡室鏡女王請曰別造伽藍安置前像大臣不許至于再三始乃絶之」とあり、一般に鎌足の正室と言われているが、嫡は『日本書紀』も『舊事本紀』も『古事記』も「嫡」字は神の妃や天皇の妃やその子に使用し、天智天皇の妃の親に鎌足が無く、弘文の弟の695年即位と思われる天武に妃の親の鎌足がいて世代が異なる。

鎌足の死亡は692年と思われ、興福寺は蝦夷を殺害後に創建した蘇我氏鎮魂の寺と考えられ、鎌媛大刀自と嶋大臣の子の難波天皇蝦夷の嫡室の可能性が高く、鎌足が大臣になる前の権力を得た時に伽藍建造を拒否した説話と2代目鏡媛の姫朝臣額田の粟原寺建立を拒否した説話をまとめたのではないだろうか。


2023年1月13日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』敏達天皇類書2

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「御子沼名倉太玉敷命坐他田宮治天下壹拾肆歳也此天皇娶庶妹豊御食炊屋比賣命生御子静見()王亦名見()()王次竹田王亦名小見()王次小治田王次葛城王次宇毛理王次小張王次多米王次櫻井玄王八柱又娶伊勢大鹿首之女小熊()子郎女生御子布汁(斗・計)比賣命次寶王亦名糠代比賣()二柱又娶息長真手玉()之女比呂比賣命生御子忍坂日子人太子()名麻呂古王次坂騰()王次宇庭()王又娶春日中若子之女老女子郎女生御子難波王次桑田王次春日王次大俣王四柱此天皇之御子等并十七王之中日子人太子娶鹿()妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇次中津王次多良王三柱又娶漢王之妹大俣王生御子知奴王次妹桑田王二柱又娶庶妹玄王生御子山代王次笠縫王二柱并七王(甲辰年四月六日崩)御陵在川内科長也」とあり、訳は略す。

蘇我氏での名が豐御食炊屋姫で物部氏での名が布都姫は「布都姫・・・倉梯宮御宇天皇・・・爲夫人亦(?)朝政」と倉梯宮天皇贄古(泊瀬部)の夫人となり、「弟娣生物部石上贄古連公」と橘豐日(馬子)が倉梯宮天皇贄古の妹間人を妃に廐戸皇子(石上贄古)を生み、「此連公異母妹御井夫人爲妻」と、『上宮聖徳法王帝説』「聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子()刀自古郎女」と橘豐日(馬子)の娘で異母妹の刀自古郎女を妃にした。

また『日本書紀』「田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇」は『舊事本紀』「贄古大連之子・・・妹物部鎌媛大刀自・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣」と倉梯宮天皇贄古と豐御食炊屋姫の子が鎌媛大刀自・田眼皇女で『日本書紀』での舒明天皇は田眼皇子で、『日本書紀』「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」のように彦人と小墾田皇女の子で、彦人が石上贄古(廐戸皇子)の義弟の麻伊古、すなわち、『古事記』での彦人と庶妹田村王の子の岡本宮天皇は『舊事本紀』「小治田豐浦宮大連」恵佐古の可能性が高い。

『古事記』と『日本書紀』では崇峻天皇までを記述した政権が異なり、『古事記』は飛鳥天皇嶋大臣が、『日本書紀』は難波天皇豊浦大臣が記述したと思われ、『古事記』の岡本宮天皇は彦人の子で、『日本書紀』では舒明天皇が贄古大連と豊御食炊屋比賣の娘の「田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇」、「石寸名爲嬪是生田目皇子更名豐浦皇子」、『舊事本紀』「贄古大連之子・・・妹物部鎌媛大刀自・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣」と田目皇子=嶋大臣=豊浦大臣を意味し、難波天皇豊浦大臣の父の嶋大臣が飛鳥天皇と理解している。

2023年1月11日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』敏達天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「諱澤中倉太珠敷尊者天國排開廣庭天皇第二子者母日皇后武小廣國押盾皇女天皇不信佛法而愛文史矣廾九年立為皇太子卅二年四月天國排開廣庭天皇崩元年歳次壬辰夏四月壬申朔甲戌皇太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后追皇太后贈太皇太后物部大市御狩連公為大連四年春正月丙辰朔甲子立廣姬為皇后生二男二女息長真手王之女也一日押坂彦人大兄皇子更名麿子皇子二日逆登皇女三日菟道磯津貝皇子次春日臣仲君女日老女子立為夫人生三男一女一日難波皇子二曰春日皇子三日桑田皇子四日大派皇子次采女伊勢大鹿首小熊女日㝹名子夫人生二女長日太娘皇女更名櫻井皇女少日糠手姬皇女更名田村皇女是歳令卜者占海部王家地與照井王家地卜便襲吉遂營宮於澤語田謂幸玉宮 五年春三月已卯朔戊子有司請立皇后詔立豐御食炊屋姬尊立為皇后生二男五女其一日菟道貝鮹皇女嫁東宮聖德太子尊二曰竹田皇子三曰小墾田皇女嫁於彦人大兄王四日鸕鶿守皇女更名輕守皇女五曰尾張皇子六曰田眼皇女嫁息長足行廣額天皇七曰櫻井弓張皇女十四年秋八月乙酉朔己亥天皇崩于大殿葬殯天皇所生皇子十五男八女七」、【諱は渟中倉太珠敷尊、天國排開廣庭天皇の第二子だ。母を石姫皇后といい、武小廣國押盾天皇の皇女である。天皇は仏法を信じず、文学や史学を好み、二十九年、皇太子になった。三十二年四月に、天國排開廣庭天皇は崩じた。元年夏四月壬申朔甲戌、皇太子は即位した。先の皇后を尊んで皇太后といい、皇太后には太皇太后の号を贈った。物部大市御狩連を大連とした。四年春一月丙辰朔甲子、広姫を皇后とした。(略)この年、卜部に命じて、海部王の家地と糸井王の家地を占わせたら吉と出たので、宮を沢語田に造り、幸玉宮といった。五年春三月已卯朔戊子、役人が皇后を立てるようたのんだので、豊御食炊屋姫をて皇后とした。皇后は二男五女を生んだ。()十四年秋八月乙酉朔己亥、天皇は大殿で崩じたので殯した。天皇が生んだ皇子女は十五人で、男子が八人、女子が七人だ。】と訳した。

安閑以降は蘇我氏の政権が記述したのだから、遠慮することなく自分の系図を入れ込めば良く、渟中倉太珠敷は稲目の名と考えられ、廣姫が稲目の妃、豊御食炊屋姫皇后は彦人の妃と思われ、しかも、豐御食炊屋姫ではなく「弟贄古大連女宮古郎」で、豐御食炊屋姫(布都姫)と贄古(泊瀬部)との子の『日本書紀』「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と小墾田皇女と考えられる。

澤中倉太珠敷は「十五年」にも「立為太子」と記述され、「十五年」は556年欽明天皇十七年に「筑紫火君百濟本記云筑紫君兒火中君弟」と記述される筑紫火君が火中君の皇太子になったと思われ、「廾九年立為皇太子」は『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「法興元丗一年」の法興帝が皇太子になった記述で、591年に法興帝が即位し、子の東漢直駒が皇太子になったと考えられる。

『隋書』の600年「開皇二十年倭王姓阿毎字多利思比孤號阿輩雞彌」、607年「大業三年其王多利思比孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法」の多利思比孤(足彦)が法興帝で、天子を自認しているのだから、帝号を持っても何ら不思議はなく、その皇太子、昼間の天子の上宮法皇も聖徳帝と自称しても不思議ではない。

彦人は、『隅田八幡神社人物画像鏡』に「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿」と623年(『日本書紀』は用明二年丁未587年)に水派宮に遷る前の生地押坂にいて、馬子ではなく嶋が鏡を贈っていて、御狩は尾輿が「天皇遂崩于内寝時年若干」と若くして死亡したので、御狩も若いため、弟の麻伊古・初代彦人も大連と記述されているのであり、麻伊古が皇太子で水派宮に遷り、御狩の子は大連ではなく、麻伊古の子恵佐古は小治田豐浦宮の大連、『舊事本紀』には岡本宮飛鳥天皇が無く、推古から皇極の宮が小治田豐浦宮で稲目の倭国、飛鳥・難波朝が馬子の倭国で、女帝と高祖母が皇位継承者だったと思われる。

稲目の朝廷は陳朝557から588年の間に舊日本国から倭国への交代があり、敏達元年572年は妥当で、推古元年593年に舊日本が倭国に吸収され、「五年春三月已卯朔戊子」は3月6日で602年なら「三月已卯朔」で、この時に御狩・初代彦人の后になったのなら、2代目彦人が623年に20歳位で、水派宮に婿入りする年代と考えられ、矛盾せず、3代目の彦人が岡本宮天皇ということになる。


2023年1月9日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』欽明天皇類書4

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「十四世孫物部大市御狩連公尾輿大連之子此連公譯語田宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮弟贄古大連女宮古郎爲妻生二兒弟物部守屋大連公子 日弓削大連此連公池身雙槻宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮弟物部今木金弓若子連公今木連等祖妹物部連公布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人此夫人倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人亦(?)朝政奉齋神宮弟娣生物部石上贄古連公此連公異母妹御井夫人爲妻生四兒小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮弟物部麻伊古連公屋形連等祖弟物部多和髪連公孫物部麁鹿大連公麻佐良大連之子此連公勾金橋宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮弟物部押甲連公此連公檜前盧入宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮弟物部老古連神野入州連等祖孫物部金連公野間連借馬連等祖目大連之子弟物部三楯連公鳥部連等祖弟物部臣竹連公肩野連宇遅部連等祖弟物部倭古連公流羅田部連等祖弟物部塩古連公葛野韓國連等祖弟物部金古連公三島韓國連等祖弟物部阿遅古連公水間君等祖十五世孫物部大人連公御狩大連之子此連公物部雄君連公女有利媛爲妻生一兒弟物部目連公大真連等祖此連公磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮孫内大紫位物部雄君連公守屋大連之子此連公飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位奉齋神宮物部目大連女豊媛爲妻生二兒孫物部鎌束連公贄古大連之子弟物部長兄若子連公弟物部大吉若子連公妹物部鎌媛大刀自連公此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政奉齋神宮宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公孫物部石弓若子連公今木連等祖麁甲大連之子弟物部毛等若子連公屋形連等祖孫物部奈西連公葛野連等祖押甲大連之子孫物部恵佐古連公麻伊古大連之子此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮十六世孫物部耳連公今木連等祖大人連公之子孫物部忍勝連公雄君連公之子弟物部金弓連公今木連等祖孫物部馬古連公目大連之子此連公難波朝御世授大華上氏(?)大刀賜食封千畑奉齋神宮孫物部荒猪連公榎井臣等祖(?)佐古大連之子此連公同朝御世賜大華上位弟物部弓梓連公榎井臣等祖弟物部加佐夫連公榎井(?)等祖弟物部多都彦連公榎井臣等祖此連公五本淡海朝御世爲大連奉齋神宮十七世孫物部連公麻侶馬古連公之子此連公淨御原朝御世天下万姓改定八色之日改連公賜物部朝臣姓同御世改賜石上朝臣姓」とあり、訳は略した。

この系図は矛盾だらけで、雙槻宮大連の守屋の子雄君が飛鳥浄御原宮の大紫冠、そして、雄君と同世代に十三世にあたる金橋宮大連の麁鹿火の子が、更に、小治田豐浦宮天皇の參政の鎌媛大刀自もいて、矛盾が枚挙にいとまがなく、実際は麁鹿火の子が十四世のはず、大市御狩は十四世孫ではなく十五世にあたり、十六世にあたる難波豐碕宮が完成した645年頃までの宮世代だったのであり、金橋宮が二世代続いた、すなわち、二朝廷分裂と考えるべきだろう。

『隅田八幡神社人物画像鏡』には「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」と嶋大臣が彦人皇太子に鏡を献上したと記述され、癸未年563年欽明天皇二四年では彦人は舒明天皇の父で生れておらず、嶋大臣も620年初出、645年が最終の記事で理に適わず、623年に献上したことが解り、『日本書紀』と35年程度の誤差があり、『日本書紀』も1世代ズレていることが解る。

同じくズレた証拠が『上宮聖徳法王帝説』の「大臣病臥云云卅五年夏六月辛丑薨云云」とあるが、626年推古天皇三四年「五月戊子朔丁未大臣薨」と全く異なり、推古35年の干支は丁亥で『上宮聖徳法王帝説』は日付に日干支は使用しておらず、辛丑は年干支の641年で、飛鳥天皇の死亡年である。

また、「弟贄古大連」と御狩の弟贄古は御井夫人の夫で「弟娣生物部石上贄古」と義理の妹の子では理に適わず、「弟贄古」は倉梯宮御宇天皇で夫人が布都姫、その娘、2代目布都姫の御井夫人の宮古郎・小墾田皇女、これは御狩の妃ではなく、「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と2代目御狩の押坂彦人の妃である。

そして、石上贄古は御狩の弟橘豐日(馬子)の嫁穴穂部間人の子廐戸と思われ、異母妹は『上宮聖徳法王帝説』「蘇我馬古叔尼大臣女子()刀自古郎女」と考えられ、布都姫の娘の襲名した布都姫の靜貝が、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「干食王后」の可能性が有り、布都姫の娘が入鹿の母で田目・豐浦大臣妃の『上宮聖徳法王帝説』「聖王庶兄多米王其父池邊天皇崩後娶聖王母穴太部間人王」と義姉穴穂部皇女の名を襲名した鎌媛大刀自と思われ、太珠敷の皇后の炊屋姫は「天國排開廣庭天皇中女也」と稲目の娘なので「稻目宿禰女曰堅鹽媛」と堅鹽が初代の炊屋姫・布都姫と考えられる。


2023年1月6日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』欽明天皇類書3

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「十五年春正月戊子朔甲午渟中倉太珠尊立爲太子卅二年夏四月戊寅朔壬辰天皇寢疾不豫皇太子向外不在驛馬召到引入臥内執其手詔曰朕疾甚以後事屬汝汝須打新羅封建仕那更遣夫婦惟如舊日死矣無恨天皇遂崩于内寢時年若于五月殯于河内古市九月葬於檜隈坂合陵天皇所生皇子廾三之中男十五女八」、【十五年の春一月戊子朔甲午、渟名倉太珠敷を皇太子とした。三十二年の夏四月戊寅朔壬辰に、天皇は病に臥せ、治らなかった。皇太子は外交で不在だったので、駅馬を走らせて呼び寄せ、寝所に引き入れ、手を取って、「私は重篤である。後のことはお前に頼む。お前は必ず新羅を討って、任那を封じ建てよ。また元の様に、夫婦同様になるなら、死んでも恨みはない」と詔勅した。天皇はついに奥座敷で崩じた。その時、年は若干、五月、河内の古市に殯し、九月、檜隈坂合陵に葬った。天皇が生んだ皇子女は二十三人で、うち男子が十五人、女子が八人である。】と訳した。

前項の「元年歳次巳未冬十二月庚辰朔」・「二年春正月庚戌朔」・「七月丙子朔」も含めて「十五年春正月戊子朔」、「卅二年夏四月戊寅朔」の中で、二年正月庚戌朔が元年年号でズレていて、『舊事本紀』の欽明元年は539年、『日本書紀』は540年、『古事記』は記述されない。

元号明要元年が541年と一致しないのは、『舊事本紀』の内容と『日本書紀』の内容は同じで表記だけ違っていると言うことになり、考え方が異なる政権が金刺宮に移行した事を示し、実際の尾輿の即位は継体天皇が24年に「朕承帝業於今廿四年」の宣言を述べていて、継体元年から24年は僧聴5年540年で翌明要元541年に崩じたと考えられる。

『舊事本紀』の欽明元年が違うのに末年が欽明三二年と同じと言う事は、金刺宮天皇が2名以上いて、「天國排開廣庭皇子卽天皇位時年若干」とあるように新天皇が若いため子の長男が13歳になっていないので、天皇の子以外の人物が『舊事本紀』の欽明二年に太子になったと考えられ、それが、目大連の孫の三代目の目大連が天皇、太子が荒山だったのが一代目の継体天皇目と荒山が同時期に死亡し、尾輿が皇太子、そして目天皇の長男も後に太子の大連を名乗ったと考えられ、目・尾輿の二人とも磯城嶋宮大連と記述されたと思われ、二王朝分裂となったと考えられる。

欽明天皇は、「天國排開廣庭皇子卽天皇位時年若干」、「天皇遂崩于内寝時年若干」と死亡時も即位時も二十歳そこそこで、若い三代目継体目連も在位30年程度で、四代目も即位後すぐに死亡し、四代目目連が即位する時、三代目の皇后が糠子の娘の山田皇后で、億気の娘の赤見皇女は太子のまま死亡した二代目の妃だったので『古事記』に記述されなかったのではないだろうか。

554年欽明十五年の立太子は494年に筑紫君磐井が倭国の太子になり、磐井の子の葛子が528年「筑紫君葛子恐坐父誅獻糟屋屯倉」と倭国の故地を奪われて、八女に遷都して葛子の子が俀国王「火中君」、そして、この欽明十五年の立太子で「筑紫君兒火中君弟」の筑紫君葛子の子で火中君の弟の筑紫火君が皇太子になったと考えられ、「東漢直駒東漢直磐井子」と磐井を襲名したようだ。

また、「廿九年立爲皇太子」と568年欽明廿九年にも立太子があったと記述されていて、このとき、法興帝が太子になったと考えられ、「法興元丗一年歳次辛巳」と31年が622年なので、法興帝・多利思北孤は法興元年591年に即位し、皇太子の馬子の娘の河上娘の婿の東漢直駒が皇太子になったが、592年柴垣宮天皇を殺害した時にに馬子に殺され、593年「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」と利歌彌多弗利・上宮法皇が太子となり、607年開皇二十年に遣隋使を派遣したが、断交した。


2023年1月4日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』欽明天皇類書2

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「元年歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申皇太子等召天皇位尊皇后曰皇太后追皇太后贈太皇太后物部尾輿連公為大連物部目連公為大臣二年春正月庚戌朔甲子有司請立皇后詔日立正妃武小廣國押盾天皇女石姬為皇后誕生二男一女長日箭田珠勝大兄皇子尊次日譯語田澤名倉太殊敷尊少日笠縫皇女亦名狹田毛皇后秋七月丙子朔己丑都迂磯城謂金刺宮三年春二月納五妃元妃皇后弟日稚綾姬皇女生一男石上皇子次妃皇后弟日影皇女生倉皇子次妃堅鹽媛生七男六女蘇我大臣稻目宿祢女也一日大兄皇子謂橘豐日尊二日磐隈皇女亦名夢皇女初侍天照大神祠後坐姧茨城皇子三日(?臈嘴)鳥皇子四日豐御倉炊屋姬尊五日椀子皇子六日大宅皇子七日石上部皇子八日山背皇子九日大伴皇子十白櫻井皇女十一日肩野皇女十二日柀(?)本稚皇子十三日倉(?)人皇女次妃堅鹽姫同女弟小姉君生四男一女一日茨城皇子二日葛城皇子三日泥部穴穗部皇子四日泥部穴穗皇女五日泊瀨部皇子」、【元年己未の冬十二月庚辰朔甲申、皇太子は即位した。皇后を尊んで皇太后と追号し、皇太后を尊んで太皇太后を贈った。物部尾輿連公を大連に、物部目連を大臣にした。二年春一月庚戌朔甲子、役人たちは皇后を立てるよう願った。天皇は「正妃の武小廣國押盾天皇の娘の石姫を皇后としよう」と詔勅した。皇后は二男一女を生み、長子を箭田珠勝大兄皇子、次を訳語田渟中倉太珠敷、一番下を笠縫皇女、またの名を狭田毛皇女という。秋七月丙子朔己丑、磯城に遷都し、金刺宮といった。(訳を略す)】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「()天國押波流岐廣庭天皇坐師木嶋大宮治天下也天皇娶檜隈()天皇之御子石比賣命生御子八田王次沼名倉太玉敷命次笠縫王(三柱)又娶其弟小石比賣命生御子上王(一柱)又娶春日之日爪臣之女糠子郎女生御子春日山田郎女次麻呂()王次宗賀之倉()(三柱)又娶宗賀之稲因()宿祢大臣之女岐多斯比賣生御子橘之豊日命次妹石隈()王次足取王次豊御氣炊屋比賣命次亦麻呂古王次大宅王次伊美賀古王次山代王次妹大伴王次櫻井之玄王次麻奴()王次橘本之若子王次泥杼王(十三柱)又娶岐多志毘賣命之姨小兄比賣生御子馬木王次葛城王次間人穴大()部王次三枝部穴太部王亦名須賣伊呂杼次長谷部若鷦鷯()(五柱)凡此天皇之御子等并廿五王此之中沼名倉太玉敷命者治天下次橘之豊日命治天下次豊御氣炊屋比賣命治天下次長谷部之若鷦鷯()命治天下()并四王治天下也」とあり、訳は略す。

師木嶋宮天皇の妃と子は史書毎に若干違っていて、『舊事本紀』は弟小石比賣の子の()上王、『古事記』には糠子郎女に含まれる不明な皇后の妹の日影皇女の子の宗賀之倉王、その糠子郎女の子の春日山田郎女、麻呂古王が記述されない。

また『古事記』も日影皇女の子の宗賀之倉王を糠子郎女に含め、『舊事本紀』は尾輿や師木嶋宮大連目の妃で、記述しない妃は稲目の妃の可能性が高く、『古事記』は麁鹿火の妃の春日山田郎女の娘を影媛と考え、春日山田郎女の妹が糠子郎女で稲目が妃にし、姪の影媛が2代目稲目の妃で日影媛と呼ばれ、糠子郎女の娘は春日山田皇女、日影媛の子は宗賀の倉王で、その子が宗賀倉山田を名乗ったと考えられる。

3史書は少なくとも継体天皇以降推古天皇までは蘇我氏が記述していて、系図も蘇我氏が書いたと思われ、広国押建金日・建小広国押楯・天国押波流岐広庭・橘豊日・長谷部若雀・豊御食炊屋比売は蘇我氏の人物と考えられ、沼名倉太玉敷は役職名ではなく確実に天皇名、皇后が豊御食炊屋比売で皇位を継承して、倭国となったと考えられる。

『古事記』に記述されない山田皇后以外の勾金橋宮天皇妃は初代稲目の妃と思われ、木蓮子の娘の継体天皇の妹宅媛との子が小兄比賣で、稲目は倭古連を賜姓され、岐多斯比賣は橘仲姫の娘、橘仲姫の子に椀(まろ)子がいて、天國排開廣庭・稲目の妃の糠子郎女の子に春日山田郎女と橘麻呂子がいて、この春日山田郎女が岐多斯比賣ではないだろうか。

そして、2代目稲目・倭古の孫の橘豊日は、倭古の倭が倭国の倭、橘は橘仲姫の橘と考えられ、岐多斯比賣の子で豊国・日()国の王馬子で、2代目か3代目の稲目の娘石付姫との子が田目(豐浦皇子)、すなわち、豐浦嶋大臣で鎌媛大刀自を妃に日本と倭と豊と広国を支配したと思われ、目天皇の皇子泊瀬部に馬子の妹を妃に送り込み、2代の穴穂部・泊瀬部天皇を殺害して倭国に皇位が遷ったようだ。