2026年1月16日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 用明天皇

   九月甲寅朔戊午は正しい日干支、御狩が即位、太子が守屋だ。『舊事本紀』では、敏達天皇の崩御が587年、用明二年、守屋が大連と大臣を兼ねたということは、守屋が倭国の大臣を兼ねたのだろう。橘豐日は『古事記』によると585年の崩で、穴穗部皇子と考えられる。用明天皇が穴穗部間人皇女に婿入りして穴穗部と名乗った。実質の倭国の権力者は稲目の娘の石寸名の婿の馬子だ。

堅鹽媛は稲目を襲名した後継者の妃、小姉君は尾輿の妃、先代の稲目は弓削連の祖の倭古連と呼ばれたと考えられる。堅鹽媛の娘の豊御食炊屋姫も夫が守屋、弓削連と呼ばれる。

 元年春正月壬子朔は正しい日干支、穴穗部間人皇女を皇后にした。穴穗部間人が実質の用明天皇と解る。この世紀の倭国は皇祖母、夫人が治める女帝の時代とも呼べる。二年夏四月乙巳朔も正しい日干支で、新甞祭を行った。

六月甲辰朔も正しい日干支で穴穗部皇子は6月に崩じ、秋七月甲戌朔甲午は正しい日干支で、磐余池上陵に葬られた。7月に廐戸皇子が守屋と戦うが、「束髮」、すなわち、15・16歳と記している。これは、593年になれば成人、昼になったら弟に成務を任せられる。591年即位の法興帝の皇太弟にピッタリな年齢だ。菟道皇女を妃にしたのが聖徳法皇の可能性が高くなった。『新唐書』は橘豊日を目多利思比孤だと記している。多利思比孤は591年即位した。菟道皇女が干食王后なのか。それとも、聖徳太子が多利思比孤、菟道皇女が鬼前太后か。

2026年1月14日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 敏達天皇2

  五年春三月已卯朔も俀国の日干支だ。豊御食炊屋姫が576年18歳で皇后になったのならば、敏達十四年は廿七歳、『舊事本紀』によれば、卅四歳に渟中倉太玉敷崩御、この年が587年、587年は用明崩御の歳、卅九歳は592年で崇峻崩御である。すなわち、『舊事本紀』の豊御食炊屋姫は崇峻皇后の布都姫夫人である。そして崇峻天皇は守屋である。587年は用明天皇が崩御、584年、敏達十三年に三代目稲目の宮の王、おそらく、馬子の義母の小姉君が皇祖母で崩御した可能性がある。二人の推古天皇、この皇后は『舊事本紀』の推古天皇ではない。

六年春二月甲辰朔は正しい日干支、日祀部と私部を置いた。夏五月癸酉朔、冬十一月庚午朔も正しい日干支、百済に大別王と小黒吉士目を大使に派遣した。大別は仁徳天皇の末裔と考えられ、扶桑国王、既に寺を持っていた。七年春三月戊辰朔も正しい日干支で、橘豊日の皇子池邊皇子が菟道皇女を妃にした。代わりに酢香手姫が伊勢に派遣されたのだろう。この菟道皇女は東宮聖徳妃、彦人の(?義)弟が聖徳太子だ。彦人は俀国王、妃が小墾田皇女、廣姫の娘の菟道皇女は義姉妹を子に含めたのだろうか。それとも、俀国皇太弟、聖徳の妃として含めたのだろうか。『上宮聖徳法王帝説』には菟道皇女は妃とされない。『新唐書』には用明=俀国王、皇太弟が上宮法皇である。

十二年秋七月丁酉朔も正しい日干支で、任那復興のため百済に使者を派遣した。十三年春二月癸巳朔は俀国か朝鮮の日干支、難波吉士木蓮子を新羅に送り、任那に行った。十四年春二月戊子朔は正しい日干支、蘇我大臣が塔を建て、大法会を行った。三月丁巳朔は俀国の日干支、馬子は俀国から稲目の宮に婿入りしたのだろう。秋八月乙酉朔も正しい日干支で、『舊事本紀』も同様だ。御狩の崩御である。

2026年1月12日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 敏達天皇1

    敏達紀も基本的に欽明紀と同じ状況で、記述したのは馬子が中心だ。正しい日干支は秦王国と倭国、九州の暦は俀国と朝鮮記事だろう。天皇は世代を考えると秦王国が二代目の尾輿、太子が御狩、倭王は三代目の稲目?太子が馬子だろう。御狩の子が守屋の孫を妃にしているので、世代がもっと後だ。『古事記』によれば三代目の稲目の薨去は584年(敏達十三年)である。

元年夏四月壬申朔は正しい日干支、三代目の稲目が即位した。『舊事本紀』は物部大市御狩が大連だが、尾輿、天皇、世代的に皇太子になったのだろう。

『日本書紀』は守屋(初代?)が大連だが、初出は敏達十四年、大臣(弓削)になっている。馬子が倭王、皇太弟が守屋になったのだろう。五月壬寅朔も正しい日干支、高句麗の使者が大井宮に迎えられた。

二年夏五月丙寅朔は俀国の日干支、大伴氏の後ろ盾の吉備は俀国領だったようだ。吉備五郡も俀国領だったものを、倭国と秦王国で分けた。秋七月乙丑朔も俀国の暦ならば、この難波は福岡になる。もしかすると、高句麗の暦なのかもしれない。秦王国の暦ならば共に542年になる。

八月甲午朔、三年夏五月庚申朔、秋七月己未朔も正しい日干支で高句麗の使人についての説話である。冬十月戊子朔丙も正しい日干支で、馬子大臣がさらに俀国領の吉備から領地を奪った。

四年春正月丙辰朔は俀国の日干支、廣姫は俀国の后のようだ。菟道磯津貝皇女は橘豐日の妃にしたが、聖徳太子妃とある。『日本書紀』編者は橘豐日イコール聖徳太子と理解している。二月壬辰朔は間違いの日干支で、574年が正しいのだろう。馬子が倭国太子になって京に上り、復命ではなく命令された。夏四月乙酉朔は正しい日干支で、新羅・百済・任那に使者を送った。

 

年候補

丙寅5月朔日 542 666

乙丑7月朔日 485 542 609

壬辰2月朔日 517 543 574 641

2026年1月9日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇3

  十五年春正月戊子朔も正しい日干支だが、立太子なので俀国の王朝交代と考えられる。火中君が王になったのだろう。廿九年にも立爲皇太子の記事がある。三月丁亥朔と夏五月丙戌朔も正しい日干支で、百済関係の記事だ。秋七月己卯朔も正しい日干支で、倭国が吉備も配下にした。三月丁亥朔、夏五月丙戌朔も正しい日干支で、百済威徳が即位した554年以降598年まで、高句麗との戦乱がない。秦王国の仲介のおかげなのだろうか。秋七月己卯朔も正しい日干支、吉備五郡を倭国稲目と秦王国穂積氏とで分け合っている。

秋七月甲戌朔は俀国の暦で、備前兒嶋を葛城山田直に与え、備前兒嶋は俀国領だったのだろう。直と同じ、もしくはそれ以上の位の田令という地位だったのを追認したのだろう。十八年春三月庚子朔は正しい日干支、しかし、威徳王は554年(欽明十五年)に即位したことになっているがこの年に正式に王となったのか。百済は戦乱が続き、王位が空白だったのだろう。

秋七月己巳朔も正しい日干支、新羅が任那を滅ぼし、新羅人が河内に入植した。秦王国が新羅も援助していたことが理解できる。卅年春正月辛卯朔も正しい日干支、国が安定し籍を定めた。卅一年春三月甲申朔も正しい日干支、稲目が薨じた。稲目の宮は584年まで、廣國押武金日死後の宣化元年536年から渟中倉太珠敷崩御までの49年間続いている。建小広国押楯から続く宮だったのだろう。

夏四月甲申朔、秋七月壬子朔も正しい日干支、高麗使人が越に流れ着いた。即位若干の王、当然稲目の後継の倭王である。卅二年春三月戊申朔も正しい日干支だが、相手は新羅、秦王国は新羅の任那併合を許しているので、これも倭国の説話だろうか。倭国は白村江で百済側、新羅と敵対している。夏四月戊寅朔も正しい日干支、天皇寢疾不豫と危篤状態になった。秋八月丙子朔も正しい日干支、新羅の弔使も秦王国への弔使だ。

2026年1月7日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇2

  九年夏四月壬戌朔は正しい日干支、百済が劣勢で、秦王にも泣きついた。百済を北でなく、西藩と呼ぶのだから、畿内の国である。六月辛酉朔も太陽の位置計算では閏5月1日だが、正しい日干支の可能性が高い。高句麗からの攻撃は任那と百済で自衛するよう、見放している。閏七月庚申朔は俀国の記録で7月2日、閏月がずれているので、閏七月は7月、6月は小の月だ。十年夏六月乙酉朔は正しい日干支、高句麗に使者を送ったと記している。秦王国は高句麗と友好関係である。

十一年春二月辛巳朔も正しい日干支だが、内容は『百濟本記』の内容で、この天皇は俀国の天皇、百済に援助している。百済は3月11日を12日として、俀国と同じ暦である。夏四月庚辰朔も俀国の日干支で、高句麗の捕虜を俀国に送っている。十三年五月戊辰朔は正しい日干支、河内部阿斯比多の報告を受けている。十四年春正月甲子朔も正しい日干支、百済は秦王国にも助けを求めている。

夏五月戊辰朔は間違いの日干支で552年が正しい。河内国の説話で、552年4月に薨じた箭田珠勝大兄のために像を創ったと思われる。仏像の初出は501年に室屋大連が命じた。倭国への仏教伝来の前、『梁書』の扶桑国を思わせる。その後、545年、おそらく、俀国に百済から丈六佛像を贈られた。百済から援軍を求めて、釋迦佛金銅像や経典を贈られた。秦王国の仏教は別ルートで入っているので、稲目に任せた。

秋七月辛辛酉朔は正しい日干支、稲目が船史を賜姓した。敏達前紀に船史の祖、敏達三年に船史となっているので、この時秦王国で承認された。八月辛卯朔も正しい日干支、百済からの援軍依頼である。冬十月庚寅朔も正しい日干支、倭国と百済が友好関係を維持しているようだ。

 

年候補

戊辰5月朔日 428 552 645

戊辰430日晦日 588

戊辰52 516 578

2026年1月5日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇1

   539年冬十二月庚辰朔の天國排開廣庭の即位は正しい日干支で天國排開廣庭、大伴金村、物部尾輿、蘇我稻目宿禰が俀国、秦王国、倭国の天皇や太子になった。皇后を皇太后としたということは、秦王国の天皇である新皇后が決まったことを意味している。雄略天皇が皇太后を贈って以来の皇太后だ。皇太后は王朝交代時のセレモニー。伝統に法る秦王国誕生と考えられる。

また、『舊事本紀』はこの539年を元年としているので、欽明元年540年は倭国稲目の元年なのだろう。即位時が「時年若干」、廣國押武金日が435年に崩じ、皇太弟の初代稲目の武小廣國押盾も戦乱で崩じ、稲目は19歳で成人していなかったのだろう。そのため、年が明けて20歳で成人となり、元年となる。短期間の王の交代は正常な状況とは思えない。

 二月壬申朔の百済人の倭国投下は正しい日干支で、稲目の記録だろう。倭は太陽暦、正しい日干支に変換したのだろう。三月壬寅朔の蝦夷・隼人の帰属は3月2日、前月は小の月で俀国の暦だ。上殖葉の記録なのだろう。俀国は欽明十七年に葛子の婿と思われる火君と葛子の実子の火中君兄弟が即位しているので、火中君が皇太弟で、共に若いのだろう。

 秋七月丙子朔の遷都は正しい日干支で稲目が磯城嶋宮に住まいを遷した。九月乙亥朔の難波祝津宮行幸も正しい日干支で秦王国の首都が難波祝津宮のようだ。稲目が難波に参内、百済と通じて、任那の管理をした金村と倭王・秦王国王が対立したのだろう。二年冬十一月丁亥朔の津守連の任那派遣も正しい日干支、秦王の記録だ。

 七年春正月甲辰朔の百済の使者の帰国は九州の暦、百済に馬や船を与え、友好関係が見える。夏六月壬申朔は正しい日干支、秦王に百済が調(税)を納めた。九年春正月癸巳朔は九州の暦、百済の救援の依頼に助けると返事している。『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』の「事典曹人名无利弖」はこの時派遣されたのだろうか。

2025年12月31日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 宣化天皇

  二月壬申朔の大連任命は正しい日干支、倭国の武小廣國押盾が即位したのだろう。以降、倭国の記録も正しい日干支で記されている。『古事記』が太陽暦で記されているように、倭国蘇我氏は太陽暦、正しい日干支への換算が容易だったと考えられる。俀国は『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』から解るように、中国風の旧暦である。

二月壬申朔の皇后擁立は正しい日干支で崩じた麁鹿火の皇后の代わり、押甲の妃が皇后になったようだ。三月壬寅朔の皇后擁立は俀国の日干支で3月2日の日干支、2月は小の月である。『舊事本紀』は宣化二年と記し、押甲と麁鹿火が分裂王朝だったようだ。麁鹿火大連の薨は元年七月、安閑二年が押甲即位である。 夏五月辛丑朔の調に関する詔勅は正しい日干支、秦王国の記録で、筑紫・肥・豊の国はやはり統治下ではない。

二年冬十月壬辰朔は「新羅冦於任那」とあるように朝鮮の暦である。新羅は秦王国にとっては友好国、倭国と俀国が百済と友好関係だった。大伴金村・磐親子が俀国と友好関係にあり、筑紫に留まった磐が俀国に婿入りした可能性が高い。

 四年春二月乙酉朔の「天皇崩」、冬十一月庚戌朔の「葬天皇」は正しい日干支で、皇后橘皇女の子の上殖葉が江田船山古墳の被葬者の主君なのだから、二代目金村の上殖葉が磐、その父の初代の金村崩御だ。倭と秦王国の反乱だったのだろうか。天皇・橘皇女・孺子が同時の崩薨、さらに、大連も尾輿に代わっているので、押甲も同時に崩じ、流行り病かクーデターが考えられる。