2025年11月3日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇4

仁徳卅五年夏六月に皇后磐之媛が筒城宮で薨じ、仁徳卅七年冬十一月甲戌朔乙酉は正しい日干支で、皇后が埋葬された。磐之媛は去來穗別を380年頃に生んでいると考えられる。この死は意乎巳が崩じた可能性がある。仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅も正しい日干支で、「八田皇女爲皇后」と和珥臣木事の父?の大別政権が誕生したのだろう。宮主宅媛の後継者雌鳥皇女が殺害され、若帯日子が女国の政権を奪取した。

『舊事本紀』に、仁徳八十二年春二月乙巳朔の「大別定皇子代后號為氏以為氏造改賜矢田部連公姓」は427年の日干支である。仁徳天皇の崩御日は『古事記』も『舊事本紀』も、丁卯年八月十五日で、丁卯年は427年だ。大別に皇后の矢田から矢田部を賜姓されたのは372年だった。八田皇后が薨じたのだろうか。

仁徳四十三年秋九月庚子朔は間違いの日干支で、「依網屯倉阿弭古捕異鳥」と阿弭古が異鳥を捕まえたが、依網池は紀元前36年に造られた。そして、西暦200年に「和魂荒魂依網吾彦男垂見爲祭神主」と吾彦男が和魂荒魂を祀った。その吾彦の説話が挿入された可能性が高く、西暦205年が相応しい。仁徳五十年春三月壬辰朔丙申は正しい日干支で、「茨田堤鴈産之」と「阿弭古捕異鳥」を対応させたのだろう。

仁徳六十七年冬十月庚辰朔甲申も正しい日干支で、「幸河内石津原以定陵地」と陵を造った。おそらく、初代の大別が崩じたのだろう。前方後円墳などは、用水や溜池の残土を積み上げた場所で、その盛り土を締めて、更に墓穴を掘る必要がある。その間、天皇が生き続ける保証は無い。もしかすると、次代の天皇も崩じる可能性もある。すなわち、古墳は仁徳天皇十一年に掘られた堀江や茨田堤の残土が締まり、小山が出来ていた所に、天皇が崩じたため、墓にしたというのが理に適う。

 

年候補

乙巳2月朔日 303 334 396 427 453

庚子9月朔日  76 205 262 329 386 453

2025年10月31日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇3

     高麗國貢鐵盾鐵的」の仁徳十二年秋七月辛未朔癸酉は九州の日干支である。『晋書』には七月壬申朔と記述され、晋書に合わせれば七月辛未晦となる。訖解尼師今三年「倭國王遣使爲子求婚以阿飡急利女送之」と倭国は皇女を妃に迎えて友好関係だったのだから、新羅人が朝貢し、勞役させ、高麗との通商の邪魔をしなかった。八月庚子朔己酉は正しい日干支で、「饗高麗客於朝」と高麗の客人は近江朝に遣って来た。

仁徳十六年秋七月戊寅朔は九州や吉備の日干支で、物語も播磨國造の祖の速待と玖賀媛の説話である。仁徳卅年秋九月乙卯朔乙丑は正しい日干支で、「遊行紀國」と紀国に遊びに行き、帰って難波に着いた皇后が上陸せず川を引き返して山背そして倭に向かった。紀国の方に引き返して山背・倭に向かったように、紀国は淀川・宇治川の上流で、近江の暦だから正しい日干支である。

仁徳卅年冬十月甲申朔も九州の日干支で、的臣の祖の口持臣の説話で、口持臣は『百済本記』に記述される人物である。注釈では「和珥臣祖口子臣」と和珥臣とも記述し、仲国王の襲津彦東征の仲間だ。河内には倭国、日向・宇佐・安芸、吉備、但馬の神武東征で稚足彦と足仲彦の軍勢が居た。

仁徳卅年十一月甲寅朔庚申は正しい日干支で、「天皇浮江幸山背」と記述され、皇后は筒城宮に滞在中である。すなわち、天皇は難波から追い出されて、紀角(木菟)宿祢の元に逃れ、難波高津宮には神武東征軍が占拠したのだろう。『古事記』の355年に崩じる若帯日子の時代、武内大臣、おそらく、意乎巳大臣の頃に帯中日子と息長帯日売が難波から女国の宇治川沿いを制圧したのだろう。仁徳卅一年春正月癸丑朔丁卯の「立大兄去來穂別尊爲皇太子」は九州の王朝交代と考えられる。阿知使主が畿内で活躍するのだから、都加使主に王朝交代したのだろうか。

2025年10月29日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇2

  仁徳四年秋八月己巳朔丁丑は正しい日干支で、「爲大兄去來穗別皇子定壬生部亦爲皇后定葛城部」とあるように、壬生部と葛城部を定めた。壬生部は推古天皇十五年にも定めていて、要するに、政権が追認したことを示す。すなわち、この仁徳時の壬生部は大和以外、葛城と同時に定めたのだから、近江の葛木に定めたと考えられる。そして、大兄去來穗別は次代の天皇、部を造るのは分家ということを意味し、大兄去來穗別が葛木の姫に婿入りしたことを示す。分家の相応しい人物が「葛城野伊呂賣」の()子の伊奢能麻和迦で、黒比賣の婿だろう。仁徳四年秋八月己巳朔丁丑の日干支は九州・河内の暦の西暦386年7月30日が晦の己巳朔が最も相応しい。これなら、襲津彦が30歳代後半、葦田宿禰が伊奢能麻和迦で葛城部を賜姓されても矛盾がなく、黒媛の婿の去來穗別の即位が20歳を超えている程度になる。

仁徳十一年夏四月戊寅朔甲午は閏3月1日で、「是國者郊澤曠遠而田圃少乏且河水横逝以流末不駃聊逢霖雨海潮逆上而巷里乘船道路亦泥」と記述する。この記事は水路を掘り、溜池を掘って、残土で大量の古墳を造った河内を示している。

すなわち、仁徳七年夏四月辛未朔の「天皇居臺上而遠望之烟氣多起」で徴税を始めたのは、裕福になったからではなく、徴税出来る権力を握ったことを示したと解る。そして、河内が正しい日干支を使ったということは、河内の政権が正しい日干支を使う政権に代わったことを示し、仁徳十一年ではなく、西暦354年仁徳四十二年と考えられる。仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅は正しい日干支で、「立八田皇女爲皇后」と皇后が代わり、難波が和珥氏印葉の王朝に代わり、用水や溜池を造ったと考えられる。すなわち、仁徳天皇は河内の志幾大縣主の大別となったようだ。

 

年候補

己巳7月晦日30 169 293 386 510

戊寅4月朔日 230 261 354 421 447

2025年10月27日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇1

 西暦313年仁徳元年春正月丁丑朔己卯は正しい日干支で、「大鷦鷯尊即天皇位尊皇后曰皇太后都難波是謂高津宮」と難波高津宮で意乎巳が大臣になったのだろう。尾綱根と高城入姫の子で、仲姫の娘の婿になる。武内宿禰が平群県紀里に婿入りし、紀角(木菟)宿祢となり、318年、大臣位を意乎巳と交替し、これが名の交換である。

314年、仁徳二年春三月辛未朔戊寅は3月2日の日干支で、「立磐之媛命爲皇后」は九州の暦、で西暦371年3月2日の可能性が高い。去來穗別の崩御は432年、母の婚姻が60年程度前なら相応しい。すると、正しい日干支の314年に皇后を迎えた政権が存在していることが想定でき、和珥大臣の菟道稚郎子の政権が西暦291年から継続していることを示す。難波朝は和珥氏が権力を握り、大別が八田皇女を妃に迎えた、印葉大臣の政権である。

仁徳四年春二月己未朔甲子も三月己丑朔己酉も正しい日干支で、「於茲三年」、「悉除課役」と即位後三年経っても税収が無く、これ以降も税が入って来ないと記述している。正しい日干支なのだから、和珥大臣の菟道稚郎子の記事で、大鷦鷯の難波朝に徴税を邪魔されているようだ。

仁徳七年夏四月辛未朔の「遠望之烟氣多起」は九州・河内の日干支で、菟道稚郎子が敗北したのだろう。正しい日干支を探すなら、西暦350年仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅の「立八田皇女爲皇后」が該当し、八田皇女の兄弟の大別が難波の王になったならば、相応しい。『舊事本紀』は仁徳天皇を大別と記している。

 

年候補

229日が晦日で辛未32 128 247 314 371 438

辛未4月朔日 226 350 412年  

2025年10月24日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 応神天皇2

応神十九年冬十月戊戌朔の「幸吉野宮時國樔人來朝之」は正しい日干支である。國樔人を接待するのだから、この吉野宮は首都近辺で、奈良県の吉野ではなく、私は日吉大社を想定した。応神廿二年春三月甲申朔戊子の「天皇幸難波居於大隅宮」、秋九月辛巳朔丙戌の「天皇狩于淡路嶋」も正しい日干支である。この時期は新羅との戦乱が続いているので、倭に対する警戒が不要の為、平穏である。

西暦306年応神卅七年春二月戊午朔は間違いの日干支で、「由是得通呉呉王於是與工女」と呉との通商だ。神功皇后の外交史は神功皇后元年を西暦321年としないと朝鮮史と合致しない。東晋も西暦317年建国で、306年はまだ晋朝でなければ相応しくないが、西暦399年ならば、合致する。阿知使主は去來穗別の即位時に近くで仕えたのだから、西暦399年はよく符合する。倭も朝鮮で戦うには、畿内とは和平が必要だったのだろう。

応神四十年春正月辛丑朔戊申の「立菟道稚郎子爲太子之情」は正しい日干支だが、『舊事本紀』は三十年春正月辛丑朔戊申と記述される。皇太子を決めた記述は倭王朝の交代を示していた。本来は西暦299年応神三十年の1月8日に印葉が大臣になった記録なのだろう。

応神四十一年春二月甲午朔戊申は九州や吉備・河内の暦である。「天皇崩于明宮・・・一云崩于大隅宮」とあるように、大隅宮なら応神廿二年春三月甲申朔戊子の「天皇幸難波居於大隅宮」と符合する。西暦291年に尾綱根の豐明王朝から大隅宮朝廷になったことを示し、豐明王朝は丸迩の比布禮大臣の王朝になったと考えられる。

 

年候補

戊午2月朔日 156 213 280 337 399 523

2025年10月22日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 応神天皇1

  西暦270年応神元年春正月丁亥朔は正しい日干支で「皇太子即位」、『舊事本紀』は「皇太子尊即天皇位都輕嶋地謂豐明宮」と記述される。高島の輕嶋豐明宮なのだから大連は、「品太天皇御世賜尾治連姓爲大臣大連」の尾綱根が即位した。

応神二年春三月庚戌朔壬子は間違いの日干支で、「立仲姫爲皇后」と仲姫が皇后なので、襲津彦の家系が仲国王になった記録だ。襲津彦を貰った纏向朝時なら西暦191年以降、西暦266年が相応しい。応神尾綱根皇后は高城入姫で、大山守(尾治弟彦・稚彦連)が二代目応神、皇太弟の額田大中彦が尾治針名根だろうか。意乎巳連が大萑天皇で、大萑は仲姫の娘の磐之媛の婿である。

応神三年冬十月辛未朔癸酉の「東蝦夷悉朝貢」、応神五年秋八月庚寅朔壬寅の「令諸國定海人及山守部」は正しい日干支である。応神九年夏四月、甘美内宿禰が許されて「賜紀伊直等之祖也」と紀伊直の祖を賜っている。将来紀伊直を賜姓すると口約束され、それが賜ったなどと、とても奇妙だ。『紀氏家牒』にある、紀伊国造の宇豆彦道彦男の娘婿になって、平群県紀里を与えられて、木菟宿祢(紀角直)を賜姓されたと考えられる。紀伊国造が御真木入日子なのだろう。

そして、これ以降、武内大臣は記述されず、武内宿禰は河内・山背・琵琶湖南部の大臣の地位を丸迩の比布禮(多遅麻)に奪われたのだろう。大伴氏の諸縣君牛諸井、葛木氏、和珥氏が揃った。紀武内宿禰(若帯日子)は318年に葛城国造荒田彦と姻戚になり、葛木王になったようだ。

応神十五年秋八月壬戌朔丁卯の「百濟王遣阿直岐貢良馬二匹」も正しい日干支だが、前月は小の月で、八月壬戌は晦にあたり、九州の暦と言える。この後、新羅と倭・百濟が戦い、西暦284年は相応しい。

 

年候補

庚戌3月朔日 80 147 204 209 266 333

2025年10月20日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后4

  前項で、七支刀の記録が旧暦372年の記録としたが、その他の朝鮮関連の記録も神功元年が西暦321年とするとよく符合する。神功五十二年の七支刀は372年近肖古王27年に阿莘王が生まれた記念に作成したと考えた。近肖古王27年28年は「遣使入晉朝貢」と晋に朝貢し、倭には七支刀をプレゼントしたのだろう。阿莘王は枕流王が崩じた385年、「太子少故叔父辰斯卽位」と若かったため王になれなかった。太子なのだからこの時13歳以上20歳未満、392年に阿莘が20歳以上なので王になれたのだから、371か372年に阿莘王が生まれたのならよく符合する。

神功皇后五十五年は375年に当たり、「百濟肖古王薨」、そして、神功皇后五六年は376年に当たり、「百濟王子貴須立爲王」と記述されるが、『三国史記』「近仇首王一云諱須近肖古王之子」と須(近仇首王)が即位した。神功皇后摂政六四年も384年に当たり、「百濟國貴須王薨」とあるが、近仇首王が崩じ、神功皇后摂政六五年も385年に当たり、「百濟枕流王薨」とあり、枕流王が崩じた。

すると、神功皇后四十七年夏四月の「百濟王使久氐」は367年、神功四十九年春三月の「撃新羅而破之因以平定比自南加羅喙國安羅多羅卓淳加羅七國」の記事も369年の可能性が高い。同様に390年即位の応神が存在し、392年に応神天皇三年、「百濟國殺辰斯王以謝之」記事、405年に応神天皇十六年の「百濟阿花王薨」記事、420年に応神天皇二五年、「百濟直支王薨」記事と記述された。

神功六十九年夏四月辛酉朔丁丑の「皇太后崩」も、冬十月戊午朔壬申の「葬狹城盾列陵」も正しい日干支である。『舊事本紀』には「追尊皇太后日氣長足姫」と、既に皇太后の氣長足姫に皇太后を追号と矛盾がある。矛盾は皇太后が崩じたのではなく、崩じたのは天皇で、埋葬場所が成務天皇と同じなのだから、木國の徳勒津宮天皇の品陀真若だろう。皇太后になったのは金田屋野姫、神功皇后は卑弥呼と壹輿を『日本書紀』は想定している。西暦289年、『晉書』の「東夷絶遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻」が新しい倭王の誕生と考えられ、その前年に壹輿は崩じたのだろう。王が交代した時に遣使するのは理に適う。