清寧三年九月壬子朔は九州や吉備の暦で、倭王武が巡視したのだろう。冬十月壬午朔は正しい日干支で「犬馬器翫不得獻上」と生き物を献上するなと命じた。
清寧三年十一月辛亥朔と四年春正月庚戌朔は九州や吉備の暦で「宴臣連於大庭賜綿帛皆任其自取盡力而出」とあるように、倭王武が征東大將軍に昇進して、祝いの品が届いたのだろうか。四年春正月庚戌朔も九州や吉備の暦で、「宴海表諸蕃使者於朝堂賜物各有差」と倭王武が朝堂に海岸沿いの王を集めて、賜物した。朝堂は643年皇極二年、660年斉明天皇六年の倭国の時代や690年の大宰府に存在した。鎮東大将軍武の朝廷にはピッタリだ。
483年清寧四年九月丙子朔も九州の日干支で、「天皇御射殿詔百寮及海表使者射賜物各有差」と賭射を行ったと述べている。倭王武は478年升明二年に「東征毛人五十五國西服眾夷六十六國陵平海北九十五國」と216国を勢力下にしたと宣言した。それらの国からの贈物を自国の配下に湯水の如く分け与えたのだろう。毛人の海岸は4つ有り1国15㎞とすると、吉備が境界になる。
清寧四年秋八月丁未朔癸丑は正しい日干支で、「天皇親録囚徒」とあるように、天皇自らが囚人から聞き取りを行い、それによって、蝦夷や隼人を配下にしたと述べている。『宋書』を見て、毛人を蝦夷ととらえたのだろうか。
清寧五年春正月甲戌朔己丑は九州や吉備の暦で、「天皇崩于宮」と記述される。この崩御した天皇は皇太子星川の兄の磐城(?大伴談)と考えられる。484年清寧五年冬十一月庚午朔戊寅は正しい日干支で、「河内坂門原陵」と河内に葬られ、この王が河内で生まれた天皇だったことが解る。『舊事本紀』に「六年十一月庚午朔戊寅葬于河内板門原陵天皇無胤」とあるように、後継女王が無く、分家の丘稚子の娘の難波小野王を妃にした億計が後継者だったが、弘計に譲った。