允恭二年春二月丙申朔己酉は正しい日干支で「立忍坂大中姫爲皇后」と忍坂大中姫が皇后になった。実際は忍坂大中姫ではなく、年齢から考えると、二代目去來穗別の皇后と考えられ、允恭(圓)妃は瑞齒別の妃の津野媛の娘の圓皇女なのだろう。二代目は弟姫の娘の衣通郎姫(弟姫)である。去來穗別の崩御が432年、瑞齒別の崩御が437年、雄朝津間稚子の崩御が454年で雄朝津間稚子は一代後でなければ奇異である。
允恭三年春正月辛酉朔は正しい日干支で、「遺使求良醫於新羅」と医師を求めた。八月に新羅から医師が遣って来たが、新羅は女国との交流を倭国に叱責されたようで、翌年、実聖尼師今十四年夏415年に「遣使倭國送白綿十匹」と倭国に遣使を送っている。よく合致する。倭国は新羅、扶桑国は高句麗、女国が百済と友好関係があったと考えられる。好太王が新羅を侵略し、友好国の扶桑国に助けを求めたか?
允恭四年秋九月辛巳朔己丑は正しい日干支で、「誤失己姓」と姓の間違や、失った者がいるので、氏姓を改定したとある。前項で考えたように、権力は難波朝が持っているようで、難波朝が無理やり氏姓を決め、不満を持った。その結果、允恭五年秋七月丙子朔己丑の玉田宿禰の反乱と允恭天皇五年冬十有一月甲戌朔甲申の「葬瑞齒別天皇于耳原陵」と考えられる。玉田宿禰の義子は吉備田狭、子は圓で、圓は河内丹比の天皇の後ろ盾と考えられ、和珥の木事の娘婿と思われる。そして、允恭五年に百舌鳥へ埋葬された天皇は河内の天皇である。七月に殺害された玉田宿禰だろうか?難波朝の後継者尾張連吾襲か?