仁徳卅五年夏六月に皇后磐之媛が筒城宮で薨じ、仁徳卅七年冬十一月甲戌朔乙酉は正しい日干支で、皇后が埋葬された。磐之媛は去來穗別を380年頃に生んでいると考えられる。この死は意乎巳が崩じた可能性がある。仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅も正しい日干支で、「八田皇女爲皇后」と和珥臣木事の父?の大別政権が誕生したのだろう。宮主宅媛の後継者雌鳥皇女が殺害され、若帯日子が女国の政権を奪取した。
『舊事本紀』に、仁徳八十二年春二月乙巳朔の「大別定皇子代后號為氏以為氏造改賜矢田部連公姓」は427年の日干支である。仁徳天皇の崩御日は『古事記』も『舊事本紀』も、丁卯年八月十五日で、丁卯年は427年だ。大別に皇后の矢田から矢田部を賜姓されたのは372年だった。八田皇后が薨じたのだろうか。
仁徳四十三年秋九月庚子朔は間違いの日干支で、「依網屯倉阿弭古捕異鳥」と阿弭古が異鳥を捕まえたが、依網池は紀元前36年に造られた。そして、西暦200年に「和魂荒魂依網吾彦男垂見爲祭神主」と吾彦男が和魂荒魂を祀った。その吾彦の説話が挿入された可能性が高く、西暦205年が相応しい。仁徳五十年春三月壬辰朔丙申は正しい日干支で、「茨田堤鴈産之」と「阿弭古捕異鳥」を対応させたのだろう。
仁徳六十七年冬十月庚辰朔甲申も正しい日干支で、「幸河内石津原以定陵地」と陵を造った。おそらく、初代の大別が崩じたのだろう。前方後円墳などは、用水や溜池の残土を積み上げた場所で、その盛り土を締めて、更に墓穴を掘る必要がある。その間、天皇が生き続ける保証は無い。もしかすると、次代の天皇も崩じる可能性もある。すなわち、古墳は仁徳天皇十一年に掘られた堀江や茨田堤の残土が締まり、小山が出来ていた所に、天皇が崩じたため、墓にしたというのが理に適う。
年候補
乙巳2月朔日
303 334 396 427 453年
庚子9月朔日 76 205 262 329 386 453年