雄略天皇十年秋九月乙酉朔戊子と冬十月乙卯朔辛酉は正しい日干支だ。水間君が呉から献上された鵝を死なせてしまい、鳥養人と鴻十隻を輕村と磐余村に置いた説話である。この水間君は継体紀に水間城之王と呼ぶように、318年に薨じた御間城入彦の後裔が磐余に住んだようだ。女国の倭直から磐余の倭へ、倭を持って移住し、娘が大長谷若建の皇太子の婿、それが三尾(御大)君、娘が倭媛だ。
雄略十一年夏五月辛亥朔の川瀬舍人の説話、十二年夏四月丙子朔己卯と十四年春正月丙寅朔戊寅の身狹村主の説話、十二年冬十月癸酉朔壬午の秦酒公の説話は正しい日干支である。葛木氏に代わり、平群氏が台頭したことを示しているのだろう。
雄略十四年夏四月甲午朔は九州の日干支、根使主の誅殺の記録なので、吉備の記事だろう。根使主に「自今以後子子孫孫八十聯綿」と以後、孫子を登用しないと言いながら、子の小根使主は三野縣主である。大伴室屋大連と敵対し、平群真鳥大臣の配下だったことが解る。根使主は平群氏に婿入りして、坂本臣を賜姓される。
雄略十七年春三月丁丑朔戊寅は正しい日干支で、贄土師部の賜姓説話である。摂津國、山背國、伊勢國、丹波、但馬、因幡を領有する朝廷、すなわち、平群真鳥の朝廷の説話である。