九月甲寅朔戊午は正しい日干支、御狩が即位、太子が守屋だ。『舊事本紀』では、敏達天皇の崩御が587年、用明二年、守屋が大連と大臣を兼ねたということは、守屋が倭国の大臣を兼ねたのだろう。橘豐日は『古事記』によると585年の崩で、穴穗部皇子と考えられる。用明天皇が穴穗部間人皇女に婿入りして穴穗部と名乗った。実質の倭国の権力者は稲目の娘の石寸名の婿の馬子だ。
堅鹽媛は稲目を襲名した後継者の妃、小姉君は尾輿の妃、先代の稲目は弓削連の祖の倭古連と呼ばれたと考えられる。堅鹽媛の娘の豊御食炊屋姫も夫が守屋、弓削連と呼ばれる。
元年春正月壬子朔は正しい日干支、穴穗部間人皇女を皇后にした。穴穗部間人が実質の用明天皇と解る。この世紀の倭国は皇祖母、夫人が治める女帝の時代とも呼べる。二年夏四月乙巳朔も正しい日干支で、新甞祭を行った。
六月甲辰朔も正しい日干支で穴穗部皇子は6月に崩じ、秋七月甲戌朔甲午は正しい日干支で、磐余池上陵に葬られた。7月に廐戸皇子が守屋と戦うが、「束髮」、すなわち、15・16歳と記している。これは、593年になれば成人、昼になったら弟に成務を任せられる。591年即位の法興帝の皇太弟にピッタリな年齢だ。菟道皇女を妃にしたのが聖徳法皇の可能性が高くなった。『新唐書』は橘豊日を目多利思比孤だと記している。多利思比孤は591年即位した。菟道皇女が干食王后なのか。それとも、聖徳太子が多利思比孤、菟道皇女が鬼前太后か。