2025年12月12日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 清寧天皇2

清寧三年九月壬子朔は九州や吉備の暦で、倭王武が巡視したのだろう。冬十月壬午朔は正しい日干支で「犬馬器翫不得獻上」と生き物を献上するなと命じた。

清寧三年十一月辛亥朔と四年春正月庚戌朔は九州や吉備の暦で「宴臣連於大庭賜綿帛皆任其自取盡力而出」とあるように、倭王武が征東大將軍に昇進して、祝いの品が届いたのだろうか。四年春正月庚戌朔も九州や吉備の暦で、「宴海表諸蕃使者於朝堂賜物各有差」と倭王武が朝堂に海岸沿いの王を集めて、賜物した。朝堂は643年皇極二年、660年斉明天皇六年の倭国の時代や690年の大宰府に存在した。鎮東大将軍武の朝廷にはピッタリだ。

483年清寧四年九月丙子朔も九州の日干支で、「天皇御射殿詔百寮及海表使者射賜物各有差」と賭射を行ったと述べている。倭王武は478年升明二年に「東征毛人五十五國西服眾夷六十六國陵平海北九十五國」と216国を勢力下にしたと宣言した。それらの国からの贈物を自国の配下に湯水の如く分け与えたのだろう。毛人の海岸は4つ有り1国15㎞とすると、吉備が境界になる。

清寧四年秋八月丁未朔癸丑は正しい日干支で、「天皇親録囚徒」とあるように、天皇自らが囚人から聞き取りを行い、それによって、蝦夷や隼人を配下にしたと述べている。『宋書』を見て、毛人を蝦夷ととらえたのだろうか。

清寧五年春正月甲戌朔己丑は九州や吉備の暦で、「天皇崩于宮」と記述される。この崩御した天皇は皇太子星川の兄の磐城(?大伴談)と考えられる。484年清寧五年冬十一月庚午朔戊寅は正しい日干支で、「河内坂門原陵」と河内に葬られ、この王が河内で生まれた天皇だったことが解る。『舊事本紀』に「六年十一月庚午朔戊寅葬于河内板門原陵天皇無胤」とあるように、後継女王が無く、分家の丘稚子の娘の難波小野王を妃にした億計が後継者だったが、弘計に譲った。

2025年12月10日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 清寧天皇1

  『古事記』では伊波禮甕栗宮で即位した天皇が「無皇后亦無御子故御名代定白髪部」と記述され、皇后がいなかった。そして、女国天皇は飯豊王で首都は「葛城忍海之高木角刺宮」と高島にあったようで、兄弟が平群志毘臣だろう。489年に真鳥と同時に崩じたと考えられる。清寧天皇は前皇后の草香幡梭媛の姪と考えられる吉備上道臣の娘の稚姫で、婿の星川が実権を握ったと考えられる。

磐城が『舊事本紀』に「皇太子雖是我弟」と言うように、星川が皇太子であり、大蔵を管理するのは当然である。星川は草香幡梭媛の子、星川は栲幡娘姫の婿と考えられる。

雄略二三年冬十月己巳朔は正しい日干支で、大伴室屋(?磐城が襲名)大連が「率臣連等奉璽於皇太子」と皇太子に天皇の璽を渡し、皇太子の星川は殺害され磐城が皇位を継承した。そして、清寧元年春正月戊戌朔も正しい日干支で、「設壇場於磐余甕栗陟天皇位・・・以大伴室屋大連爲大連」、すなわち磐余甕栗宮の天皇の位に就いた。大連は談(磐城皇子)が室屋を襲名したのだろう。「平群眞鳥大臣爲大臣」は男浅津間若子が454年甲午年正月十五日に崩じ、女国は平群大臣が継承した。

清寧元年冬十月癸巳朔辛丑も正しい日干支で「葬大泊瀬天皇于丹比高鷲原陵」と河内に埋葬しているので、河内出身の王だったことが解る。埋葬されたのは星川皇子か。清寧三年春正月丙辰朔は正しい日干支で、磐城王と考えられる大伴談が億計と弘計を迎え入れた。弘計は磐城皇子の孫娘の婿で、皇位を継承した。

清寧三年夏四月乙酉朔辛卯も正しい日干支だが、「以億計王爲皇太子」とあり、これまでは、倭国の王朝交代だった。しかし、倭王武は少なくとも、477年から502年天監元年「倭王武進號征東大將軍」まで、王位にあった。従って、億計が実際に太子になったか、後の倭国王となる、蘇我氏が分身国王に即位した可能性がある。

2025年12月8日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 雄略天皇4

  雄略十八年秋八月己亥朔戊申も正しい日干支、目連は磐余甕栗宮大連で布都久留連の弟の清寧天皇である。目連の妃は記されないが、稚姫に婿入りした星川皇子なのだろう。反乱を起こした伊勢朝日郎は女国の王と考えられる。

雄略十九年春三月丙寅朔戊寅も正しい日干支で、穴穗部を置いた女国の真鳥の説話だろう。室屋の力を借りて伊勢朝日郎に勝った真鳥が穴穂の王だったと考えられる。勝利した後の説話で負けた王が大津の自領に新たに穴穂部を置く必要がない。室屋の協力が必要なほど、真鳥の勢力がまだ弱かったのだろう。伊勢朝日郎は圓の子の可能性があり、娘が伊勢の女王の稚足姫と思われる。

478年雄略廿二年春正月己酉朔は九州の暦で、「白髮皇子爲皇太子」とあるように、倭国の王朝交代だろう。『宋書』の、478年順帝昇明二年に「安東大將軍倭王」、「興死弟武立・・・安東大將軍倭國王」と記述される。弟が王位を継承すると言うことは、分家に王権が遷る、皇后が代わる、王朝交代である。ただし、雄略朝以降は倭王馬子が記述しているので、蘇我氏の王朝交代を記述した可能性も否定できない。

『舊事本紀』には「物部布都久留連公為大連」と記述されるが、二代目大長谷若建が即位したのだろう。大長谷若建の在位は454年から489年までの36年間、2から3代の大長谷若建が存在する。

雄略天皇二三年秋七月辛丑朔も八月庚午朔丙子も正しい日干支で、室屋が崩じ、室屋を襲名した談連と東漢掬直が遺言を代読したのだろう。遺言の中の「四夷賓服」は四方志の対象国の文身国・大漢国・倭国・女国なのだろう。大泊瀬幼武の薨去日は489年仁賢二年己巳年八月九日なので、大伴氏の雄略天皇陵の丹比高鷲原、河内の朝廷だった。古代は母が葬られている土地に葬られたようだ。

2025年12月5日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 雄略天皇3

  雄略天皇十年秋九月乙酉朔戊子と冬十月乙卯朔辛酉は正しい日干支だ。水間君が呉から献上された鵝を死なせてしまい、鳥養人と鴻十隻を輕村と磐余村に置いた説話である。この水間君は継体紀に水間城之王と呼ぶように、318年に薨じた御間城入彦の後裔が磐余に住んだようだ。女国の倭直から磐余の倭へ、倭を持って移住し、娘が大長谷若建の皇太子の婿、それが三尾(御大)君、娘が倭媛だ。

雄略十一年夏五月辛亥朔の川瀬舍人の説話、十二年夏四月丙子朔己卯と十四年春正月丙寅朔戊寅の身狹村主の説話、十二年冬十月癸酉朔壬午の秦酒公の説話は正しい日干支である。葛木氏に代わり、平群氏が台頭したことを示しているのだろう。

雄略十四年夏四月甲午朔は九州の日干支、根使主の誅殺の記録なので、吉備の記事だろう。根使主に「自今以後子子孫孫八十聯綿」と以後、孫子を登用しないと言いながら、子の小根使主は三野縣主である。大伴室屋大連と敵対し、平群真鳥大臣の配下だったことが解る。根使主は平群氏に婿入りして、坂本臣を賜姓される。

雄略十七年春三月丁丑朔戊寅は正しい日干支で、贄土師部の賜姓説話である。摂津國、山背國、伊勢國、丹波、但馬、因幡を領有する朝廷、すなわち、平群真鳥の朝廷の説話である。

2025年12月3日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 雄略天皇2

    室屋は安康元年に、目は雄略十八年に大連を賜姓され、目は甕栗宮大連なので、この時、皇太子の年齢に達したのだろう。目大連は清寧・継体・欽明の大連、すなわち、目大連は大伴室谷の後継者で、金村の皇太子も目大連だったのではないだろうか。天皇室屋・金村大連、太子目大連だ。

雄略二年冬十月辛未朔癸酉は正しい日干支で、「幸于吉野宮」の吉野宮は日吉大社の気比宮と考えられる。同じく「行幸吉野宮」の四年秋八月辛卯朔戊申は九州の日干支で、8月1日が7月晦に当たる。「行幸」はこの日と安閑元年閏十二月己卯朔壬午に記述されるのみで、行幸したのは大伴大連金村である。すなわち、室屋と金村と日向出身の大連の「幸」を「行幸」と記録したことが解る。雄略五年六月丙戌朔も正しい日干支で、「筑紫各羅嶋産兒仍名此兒曰嶋君」とあるように、武寧王が加唐島で生まれた。

雄略六年春二月壬子朔乙卯は正しい日干支で、「天皇遊乎泊瀬小野」と国見を行った。雄略六年三月辛巳朔丁亥は九州の日干支で、「賜姓爲少子部連」と九州出身の少子部の賜姓説話なのだろう。雄略七年秋七月甲戌朔丙子は正しい日干支で、少子部連蜾蠃に「欲見三諸岳神之形」と三諸山の神を連れてくるように指示した。蜾蠃は蠶と嬰兒を聞き間違える、九州出身の人物の説話だからだろう。

雄略九年春二月甲子朔は正しい日干支で、「凡河内直香賜」と香賜の誅殺の説話である。『古事記』の「志幾大縣主」の説話の続きなのだろう。雄略天皇は丹比高鷲原陵に埋葬されるのだから、河内の天皇で、凡河内直は大草香の後継者と考えられる。眉輪は安康三年に7歳なのだから、雄略九年は16歳で、大草香の後継者の眉輪の姉の婿の凡河内直香賜が既に成人している可能性が高い。秋九年七月壬辰朔も正しい日干支で、河内国の誉田陵の埴輪の馬の説話だ。凡河内直を剥奪され、後継者の小根三野縣主が継承した。

2025年12月1日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 雄略天皇1

 456年安康三年冬十月癸未朔は正しい日干支で、磐坂市邊押羽と平群真鳥が王位を争った。後継者の大前の弟の小前(磐坂市邊押羽)、履中天皇の姪の荑媛を妃にした人物である。大前・圓が失脚し、女国の後継者は大津の小前と圓の娘婿の平群真鳥が皇位を争った。大長谷若建は伊莒弗の娘の童女君の婿、布都久留に相当する。455年に大前から皇位を継いだ大泊瀬幼武は大伴室屋に追い出され、河内から朝倉に首都を変えた。

『舊事本紀』の元年十一月壬子朔甲子は安康三年で、「天皇令有司設壇於泊瀨朝倉即天皇位」とあるように、天皇が即位した。天皇は大伴室屋で「還定謁宮」と朝倉から帰って謁宮を定めたと、朝倉とは異なる場所が首都になった。これは、河内に遷都、皇后が代わった、稚姫に代わったことを意味する。

元年春三月庚戌朔壬子は正しい日干支で、「立草香幡梭姫皇女爲皇后」とあるように、大伴室屋が河内王の難波の志幾の大縣主の大草香の妹の草香幡梭姫を皇后にした。依羅連柴垣の娘の太姫の名は大縣主の姫に相応しい名前で、婿が大長谷朝の布都久留大連である。室屋の甥にあたる。雄略天皇の陵が丹比高鷲原なので、扶桑国河内の天皇で、「東千餘里有女國」と記述されるように、扶桑国難波・女国琵琶湖間は約50㎞で、短里では千里だ。

『舊事本紀』は二年丁酉春三月庚戌朔壬子のように元年が二年と1年のズレが有るが、『舊事本紀』の元年は安康三年である。すなわち、457年雄略元年に、「平群真鳥臣為大臣以大伴連室屋物部連目為大連」と真鳥が女国王に即位した。

2025年11月28日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 安康天皇2

  『舊事本紀』に安康元年十二月己巳朔壬午」に「物部木蓮子連公為大連」とあるように、天皇は木蓮子となっている。しかし、木蓮子は「石上廣髙宮御宇天皇御世為大連」とされているので、「大長谷朝御世為大連」の布都久留が即位したのだろう。布都久留は依羅連の娘を妃にしているので、太姫が草香幡梭姫である。実質は初代布都久留が天皇だったのだろうか。454年1月に男浅津間若子は薨じ、圓大臣が穴穂で継承したようで、薨去日が記述されない。伊豫に流されたのが圓・木梨輕と考えた。葛城氏は倭直の孫?の童女君が長谷に逃れ、女国は427年崩御の大雀(大別)の後を継ぐ平群氏が支配した。

安康二年春正月癸巳朔己酉も正しい日干支で、「立中蒂姫命爲皇后」とあるように、穴穂は中蒂姫を皇后にした。去來穗別の娘となっているが、世代的に初代大草香の娘の中磯媛と中臣烏賦津使主との娘の可能性が高い。中磯媛は仲国の女王のようで、その婿が中臣氏で仲国王になり、その娘が中蒂姫と考えた。『日本書紀』は安康皇后を去來穗別の娘とするが、履中(反正)天皇伊莒弗の妃の玉彦媛(津野媛)が初代忍坂大中姫なのだろう。

安康三年秋八月甲申朔壬辰も正しい日干支で、穴穂が眉輪に殺害された。大前は眉輪や圓(木梨輕)の後ろ盾になって大泊瀬幼武に殺害され、陵は大和の菅原伏見、首都大和石上なので相応しい。