『舊事本紀』に安康元年十二月己巳朔壬午」に「物部木蓮子連公為大連」とあるように、天皇は木蓮子となっている。しかし、木蓮子は「石上廣髙宮御宇天皇御世為大連」とされているので、「大長谷朝御世為大連」の布都久留が即位したのだろう。布都久留は依羅連の娘を妃にしているので、太姫が草香幡梭姫である。実質は初代布都久留が天皇だったのだろうか。454年1月に男浅津間若子は薨じ、圓大臣が穴穂で継承したようで、薨去日が記述されない。伊豫に流されたのが圓・木梨輕と考えた。葛城氏は倭直の孫?の童女君が長谷に逃れ、女国は427年崩御の大雀(大別)の後を継ぐ平群氏が支配した。
安康二年春正月癸巳朔己酉も正しい日干支で、「立中蒂姫命爲皇后」とあるように、穴穂は中蒂姫を皇后にした。去來穗別の娘となっているが、世代的に初代大草香の娘の中磯媛と中臣烏賦津使主との娘の可能性が高い。中磯媛は仲国の女王のようで、その婿が中臣氏で仲国王になり、その娘が中蒂姫と考えた。『日本書紀』は安康皇后を去來穗別の娘とするが、履中(反正)天皇伊莒弗の妃の玉彦媛(津野媛)が初代忍坂大中姫なのだろう。
安康三年秋八月甲申朔壬辰も正しい日干支で、穴穂が眉輪に殺害された。大前は眉輪や圓(木梨輕)の後ろ盾になって大泊瀬幼武に殺害され、陵は大和の菅原伏見、首都大和石上なので相応しい。