こうした〝寄り道″に惑わされてしまったのは、記録の精度ではなく、読み手の視点の方であった。末盧国についても、倭人伝はこう語る。「人が足を踏み入れると、前の人が見えない」つまり、魏使たちは末盧国に入らず、沿岸を舟で移動した。従って、距離の記録はなかった。沿岸を航行した、壱岐・末盧国間の千里に含まれるから。
成務天皇統治下135年の項に「山河而分國縣」。国境は山や川で分けると。不彌国から邪馬台国、その境目が「川」・唐原川だったなら、距離数十メートルはわずか1里に満たない。「余里」に過ぎない。奴国と邪馬台国もまた、川で接していた可能性が高い。距離の記録がないのは、近くて距離がなかったから。伊都国から奴国へ行くには、「東南へ」でも、「東へ」でも、百里。奴国の内部には三〜四百里の広がりがある。記録がなかったのではない。記すまでもなかった。
奴国が今宿長垂山の東から御笠川河口の範囲にあったと仮定すれば、距離は約18km、約三〜四百里。想定通りで御笠川や那珂川が、国境であった可能性が濃厚である。奴国回りでも不彌国回りでもよかったが、東南→東北では迂回や逆行するからか。邪馬台国の精神的な柱が不彌国にあったからなのか。
こうして紐解いていけば、倭人伝の距離は、嘘でも誤りでもない。ただ、その測り方を、私たちが見誤っていた。必要なのは、物差しを正す。領域と行程のずれを理解すれば、記録が静かに地図として浮かび上がる。距離の空白。余分に見える行程。それらは、誤読の産物だった。見直すべきは地図ではない。記録の背後にある「方法」だった。