2025年9月17日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇5

  西暦58年垂仁八十七年春二月丁亥朔辛卯も正しい日干支で、記事は「五十瓊敷命謂妹大中姫曰我老也不能掌神寶」とある。天皇五十瓊敷(大筒木眞若)が妹の大中姫(八坂八坂入媛)に天皇の璽を委譲した記事だろう。そして、「大中姫命授物部十千根大連而令治」と夫の十千根に天皇の璽を委譲した。十千根が最高実力者になった。

十千根は穴太足尼、穴太に遷都した天皇、纏向天皇にとっては足尼である。『日本書紀』では、正統な政権が纏向政権だが、大臣・大連を記述せず、内容は『古事記』と同じように、師木から高穴穂への政権を記述している。景行天皇が『日本書紀』上では、景行五八年に、まだない高穴穂宮に遷っている。『日本書紀』通りなら、何もない高穴穂に行って、3年間掛かって高穴穂宮を造ったことになる。ところが、それ以前に、ないはずの穴太足尼が存在するのだから、垂仁八十七年にまだ首都纏向でない首都穴太宮があっても不都合はない。高穴穂宮は60年より長い107年続いたと『日本書紀』で記述している。すなわち、景行13年から穴太に分家の大玉の宮(高穴穂宮)が存在した可能性が高い。

西暦59年垂仁八十八年秋七月己酉朔戊午も正しい日干支で、「新羅王子天日槍初來之時將來寶物今有但馬」。61年垂仁九十年春二月庚子朔も正しい日干支で「天皇命田道間守遣常世國令求非時香菓」と記述される。正しい日干支なのだから、穴太足尼の外交で、娘が比咩古、纏向皇后の五十琴姫の母である。すなわち、纏向の王の夫である膽咋が穴穂に逃れ、女王比咩古が纏向を治めたのだろう。

その結果が『三国史記』の173年、「阿達羅尼師今・・・二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」や『後漢書』の189年以降の「桓・靈閒 倭國大亂・・・有一女子名曰卑彌呼」と考えられる。比咩古という名は『後漢書』の卑弥呼と無関係とは思えない。

2025年9月15日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇4

西暦1年垂仁卅年春正月己未朔甲子は正しい日干支の、「天皇詔五十瓊敷命大足彦尊曰汝等各言情願之物也」と皇位継承の記述がある。この記事は垂仁廿八年に薨じた倭彦を後継した五十瓊敷入彦が継承したのだろうか。弓矢は天皇の璽の象徴、それを五十瓊敷入彦は大中姫に継承させた。朝廷の統治を五十瓊敷、大足彦が敗れて大国王になった。結果的に大足彦は播磨稻日大郎が住む播磨入りしていて、五十瓊敷に敗れている。大足彦が播磨に入って、大国が琵琶湖から西へ移動した。

西暦3年垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯は正しい日干支で「皇后日葉酢媛命薨」の記事である。それに続く、5年垂仁卅四年春三月乙丑朔丙寅も正しい日干支の「先是娶山背苅幡戸邊」と皇太后が代わった。苅幡戸邊が倭彦の妃、綺戸邊が倭比賣なのだろうか。

西暦8年垂仁卅七年春正月戊寅朔は九州の日干支で、「立大足彦尊爲皇太子」は九州倭国の王朝交代である。

『舊事本紀』の西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔に該当する朔日近辺の日干支は全く無い。記事は「十市根命賜姓物部連公即為大連」、十市根が天皇になった。十市根大連はすでに垂仁二六年にも記述されて、これ以前にある該当する日干支は紀元前30年崇神三十年が相応しかった。『舊事本紀』独自の記述は九州や吉備の日干支は考えられない。

紀元前30年に十市根、世代的に大根が天皇になったのだが、既に、崇神六十五年に武諸隅が大連になっている。ところが、この武諸隅は尾張氏の建諸隅で、物部氏の武諸隅ではないので、『舊事本紀』は十市根を記述し、おそらく、垂仁八十一年に十市根が八坂入媛の婿になったのだろう。紀元前30年は纏向朝と師木朝が分裂した年である。

 

年候補

壬子2月朔日 -221年 -97年 -30年 -4年 28年 95年閏2

2025年9月12日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇3

    大新河が纏向朝廷を引き継ぐ前の月、前7年垂仁廿三年秋九月丙寅朔丁卯は九州や吉備の暦と考えられ、8月の事績である。「詔群卿曰譽津別王是生年既卅髯鬚八掬」と譽津別の記録だ。ところが、9月に大新河の即位後、冬十月乙丑朔壬申の「天皇立於大殿前譽津別皇子侍之時有鳴鵠度大虚」、十一月甲午朔乙未の「湯河板擧獻鵠也譽津別命弄是鵠」と正しい日干支で記述される。大新河によって、譽津別は師木に追放され、吉備の日干支で亡くなったようだ。

前5年垂仁廿五年春二月丁巳朔甲子は正しい日干支で、「今當朕世祭祀神祇豈得有怠乎」と天皇が交代した。日葉酢媛の夫の八坂入彦が崩じて山代之大筒木眞若(五十瓊敷入彦)が即位したと考えられる。そのため、三月丁亥朔丙申と正しい日干支の「離天照大神於豐耜入姫命託干倭姫命」と、皇后が豐耜入姫(日葉酢媛)から倭姫に交代した。

前4年垂仁廿六年秋八月戊寅朔庚辰も正しい日干支で、「天皇勅物部十千根大連曰屡遣使者於出雲國雖検校其國之神寶」と十千根(大根)が天皇の璽を管理する地位になった。『舊事本紀』には西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔に「五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」との記述があるが、既に大連になっているので、前の項で述べたように、前30年に大連に賜姓されたと考えた方が正しいようだ。

前3年垂仁廿七年秋八月癸酉朔己卯は九州・吉備の日干支なので、大新河の配下の記録で、「令祠官卜兵器爲神幣吉之故弓矢及横刀納諸神之社」と師木朝廷との戦いの準備を始めたのだろうか。前2年垂仁廿八年冬十月丙寅朔庚午は正しい日干支の「天皇母弟倭彦命薨」の記事は、倭が「あま」で尾張大海媛、『舊事本紀』は尾張大倭媛とも記述するので倭彦は大倭媛(大海媛)の子孫だろう。天皇大筒木眞若(五十瓊敷入彦)の母は日葉酢媛(豐耜入姫)であり、御上神社で大神を祀った。弟が倭彦(2代目大根・同母弟伊理泥)、その娘が倭姫で大筒木眞若の妃、『古事記』では丹波能阿治佐波毘賣と呼ばれたと考えられる。十一月丙申朔丁酉も正しい日干支で、「葬倭彦命于身狹桃花鳥坂於是集近習者」と記述され、御上神社の近くに武佐町がある。師木王朝の記録だ。

 

年候補

壬子 -2212月朔日 -972月朔日 -302月朔日 -42月朔日

2025年9月10日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇2

  前26年垂仁四年秋九月丙戌朔戊申に「皇后母兄狹穗彦王謀反欲危社稷」と記述される。狹穗姫は纏向の皇后なので、大和神社を創建した淳名城入姫に比定される。「皇后母兄狹穗彦王」と皇后の淳名城入姫の母の大海媛の兄の建諸隅が狹穗彦と記述する。

崇神六十五年に大連に即位した建諸隅が狹穗彦だろう。大和神社は大國魂神を祀り、市磯長尾市が大國魂を祀ったので、狹穗姫の子の譽津別の後裔は市師宿祢の祖の穴太足尼、穴太宮天皇と考えられる。

前25年垂仁五年冬十月己卯朔に『舊事本紀』「狹穗彦與妹皇后共死」と天皇の狹穗彦(2代目も)は崩じた。狹穗彦が天皇になっても遷都していないので、狹穗彦は師木の天皇である。しかし、前23年垂仁七年秋七月己巳朔乙亥の「左右奏言當麻邑有勇悍士曰當麻蹶速」とあるように騒乱があった。後継者の八坂入彦が纏向天皇と争ったのだろう。そして、前15年垂仁十五年春二月乙卯朔甲子に「喚丹波五女納於掖庭」、秋八月壬午朔の「立日葉酢媛命爲皇后」とあるように、皇后が代わった。丹波の姫なのだから、首都は師木なので、師木の天皇が交代した。

垂仁天皇の妹の日葉酢媛・豐耜入姫が師木の皇后と考えられ、前5年垂仁廿五年三月丁亥朔丙申の「離天照大神於豐耜入姫命託干倭姫命」の記事は倭姫の夫と考えられる五十瓊敷入彦に天皇が代わったのだろう。豐城入彦は崇神六十五の「武諸隅命為大連」の時に太子、垂仁元年に天皇なので、廿五年後に義兄弟の八坂入彦もかなり老齢になっていたと考えられる。垂仁十五年の日葉酢媛皇后も、2代目なのだろうか。

『舊事本紀』は前7年垂仁二十三年秋八月丙申朔已亥に「大新河命為大臣」、丁巳に「大新河命賜物部連公姓即改大臣号大連」と、纏向珠城宮の大連に就いた。この日干支は7月朔日の日干支、他の候補として、9月2日、紀元25年垂仁五十四年がある。妃が木国造りの荒川戸俾の娘、豐城入彦の母も紀伊國荒河戸畔の娘なので、豐城入彦を継承したのだろう。苅幡戸邊の子の祖別は兄弟に五十日足彦(伊香色雄の後継)が存在し、大新河にピタリの人物だ。豐城入彦の年齢から考えれば、吉備の記録で、垂仁二十三年前7年9月2日の朔の日干支でよさそうだ。(8月は29日までで9月1日が晦日)

 

日干支候補

「垂仁二十三年秋八月丙申朔」-77月朔1日 丙申に対する-789月の日干支

7月晦日30日 乙丑 8月朔1日 丙寅 82日 丁卯

8月晦日29日 甲午 9月朔1日 乙未 92日 丙申

2025年9月8日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇1

    纒向珠城宮の天皇は豐城入彦だと思われるが、前69年崇神廿九年春正月己亥朔に「生於瑞籬宮」と生まれた。この生まれならば、42歳で皇后を迎え、後継者を生んだことになる。奇異であるが、崇神四十八年春正月己卯朔戊子の太子選びが13歳以上になっていないとまずいからだろう。立太子は倭国の王朝交代で、太子は13歳以上、成人していないと皇位を継承できないからである。

実際は崇神六十五年春正月の武諸隅命為大連の時に太子の豐城入彦は十三歳以上で垂仁元年に二十歳以上である必要があり、崇神五十年以前に生まれていないと理に適わない。私は、四十八年春正月己卯朔戊子の相続競争が生まれた年ではと考えている。それで、前38年に豐城入彦が太子の年齢に、武諸隅が出雲の神宝を得て前29年皇位に、豐城入彦は纒向に王朝を建てたのではないだろうか。

垂仁天皇は前29年垂仁元年春正月丁丑朔戊寅に「皇太子即天皇位」と即位しているが、この日干支は九州や吉備の日干支である。前天皇の埋葬も『舊事本紀』『日本書紀』は「明年秋八月甲辰朔甲寅葬于山邊道上陵」、『日本書紀』では垂仁紀にも「冬十月癸卯朔癸丑葬御間城天皇於山邊道上陵」と2度目の異なる記述をしている。「八月甲辰朔」が九州の日干支ならば、2日が甲辰となるのは10月なので、『日本書紀』の垂仁紀は間違えたのだろうか。さらに、「尊皇后曰皇太后」も垂仁元年十一月壬申朔は晦の九州・吉備の日干支で、纒向珠城宮に遷都するまで豐城入彦の記録は出雲神社の記録だった可能性が高い。

『舊事本紀』の西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔の日干支は間違いの日干支で、「五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」と大連(天皇)に即位したと記述された。しかし、正しい日干支の年は垂仁元年の前年の紀元前30年にあたり、十市根の父の大根(狹穗彦)が師木水垣宮の天皇に即位したと考えられる。

狹穗彦は『日本書紀』に、前33年崇神六十五年秋七月「天皇踐祚」と崇神天皇から皇位を譲られた。そして、豐城入彦は前28年垂仁二年春二月辛未朔己卯に「立狹穗姫爲皇后后生譽津別命」と狹穗姫は纒向珠城宮皇后となった。狹穗姫は大和神社を創建した渟名城入姫である。

 

年候補

己亥 -9612月晦日 -691月朔 -3912月晦日 -331月晦日-121月朔

壬子 -2212月朔日 -972月朔日 -302月朔日 -42月朔日

298月朔日前後

 7月晦日29日壬寅 8月朔1日癸卯 82日甲辰

2910月朔日前後

 9月晦日30壬寅 10月朔1日癸卯 102日甲辰

2025年8月25日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇5

     夢見診断と「豐城命令治東國」は前30年崇神六十八年冬十二月戊申朔壬子の「崩時年百二十歳」の前、特に十一月は相応しかった。前38年崇神六十年秋七月丙申朔己酉の「武日照命從天將來神寶」記事は亀岡の出雲神社から、媛蹈鞴五十鈴媛が宇摩志麻治から受け取った天皇の璽・神寶を「武諸隅而使獻」と武諸隅が得た。勿論、大新河の子の武諸遇や大母隅は生まれていないので、世代的に建宇那比の子の建諸隅が天皇の璽を得た。亀岡の出雲神社の勢力は大田田根子が河内に居て、大物主を祀ったように、河内・纏向を勢力下にしていた。その纏向の勢力の天皇の璽を建諸隅が得て、河内・纏向も勢力下にした。

そして、前36年崇神六十二年秋七月乙卯朔丙辰、吉備の日干支の記事の「河内狹山埴田水少・・・其多開池溝」とある。すなわち、出雲神社の領土だったと考えられる河内を建諸隅が領有して開墾した。

『舊事本紀』は前33年崇神「六十五年春正月武諸隅命為大連」と天皇即位を宣言し、「六十五年秋七月天皇踐祚」と崇神天皇が建諸隅に皇位を譲ったと認めた。豐城入彦が纏向天皇で、遷都していないので、建諸隅は豐城入彦では無かったと解る。

前30年に「豐城命令治東國」と豐城入彦から河内や纏向を奪おうとしたと考えられる。当然、豐城入彦は反発して、前天皇の崇神天皇と建諸隅大連側に勝利して、崇神天皇は前30年六十八年冬十二月戊申朔壬子の「崩時年百二十歳」と崩じた。

明年秋八月甲辰朔甲寅の日干支は九州・吉備の日干支で甲辰は8月2日で、「葬于山邊道上陵」とある。資料には八月癸卯晦甲寅とあったのだろう。すなわち、河内や纏向で権力を持っていた豐城入彦が葬儀を遂行して、皇位を引き継いだと宣言したのだろう。

それに対抗した人物が建諸隅大連、皇后狹穗姫(淳名城入姫)の兄の狹穗彦(おそらく大根)で、崇神天皇の首都の師木水垣宮で政権を維持したと考えられる。


年候補

己卯朔 -454月 -405月 -309月 -3011月 -2510月 -142

 PC破損のため、しばらく休みます。

2025年8月22日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇4

  崇神天皇は大彦と旦波大縣主の娘の竹野媛との子の丹波道主、彦湯産隅である。皇后は伊香色雄の義姉妹の木国造の娘で、彦湯産隅の皇子は丹波の姫、伊香色雄の娘を妃にし、伊香色雄の皇子も木国造の娘(真木姫・荒姫・玉手姫)を妃にしたようだ。実質の最高権力者は伊香色雄である。

前86年崇神十二年春三月丁丑朔丁亥は正しい日干支で「詔曰朕初承天位」と四道の侵攻の成功で、領地の拡大を祝っている。崇神十二年秋九月甲辰朔己丑の日干支は1月のズレがあり、10月朔日が正しい。11月に閏月があるので、正しいかもしれないが、保留である。記録は「故稱謂御肇國天皇也」で、初めての天皇だと祝っている。何故即位12年目に宣言するのか不明である。相応しい日干支は前210年、孝元天皇が輕地境原宮に遷都した翌年なら相応しいかもしれない。翌年に孝霊天皇を埋葬し、その翌年に欝色謎を皇后にしている。

前81年崇神十七年七月丙午朔の「造舩舶」は正しい日干支で、崇神四八年夏四月戊申朔丙寅の「立活目尊爲皇太子」は閏三月の日干支である。立皇太子は九州倭国の王朝交代記事は変わらない。しかし、前50年崇神四十八年春正月己卯朔戊子の「不知曷爲嗣各宜夢」記事の夢見で後継者を決める説話が奇妙だ。

『舊事本紀』には崇神「三十八年春正月己卯朔戊子」と間違いの日干支を記述している。当然、夢見で後継者を決めるにしても、崇神四八年は奇異である。立皇太子記事が四月なので、前30年の九月か十一月は朔日が己卯、翌年正月に垂仁天皇が即位している。

夢見で武諸隅大連の後継者を八坂入彦にしようと画策したので、豐城入彦が纏向天皇を名乗った。師木天皇の武諸隅大連は狹穗彦(大根)、妃が十市瓊入姫、豐城入彦の妃が淳名城入姫(佐波遲比賣)、八坂入彦の妃が豐鍬入姫(日葉酢媛)、義兄弟である。

 

年候補

甲辰9月朔 -303 -241 -210 -117 8 101

己卯朔 -454月 -405月 -309月 -3011月 -2510月 -142