2026年1月23日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇2

  推古紀と舒明紀は倭国政権が記した。推古朝は秦王国の物部氏の政権ではあるが、倭国が実質権力者だったと考えられる。

元年夏四月庚午朔は俀国の日干支、立太子は、上宮法皇の説話で廄戶豐聡耳は「利歌彌多弗利」である。多弗が塔ならば、上塔、上宮とよく合致する。二年春二月丙寅朔は正しい日干支、「令興隆三寶」の太子は贄古の弟の麻伊古大連と考えられる。大連が二人同時に存在するのは、天皇の夫と皇太子が対等ということを示す。

『舊事本紀』の二年春三月丙寅朔は間違い、4月2日と考えられ、俀国の記録を正しい日干支に変えた可能性も否定できない。畿内では敏達六年にも造寺工が来て、大別王の寺を改修した。敏達十四年にも守屋が寺に詣でている。この年に寺を焼いたとある。用明二年にも攝津国に四天王寺などを建立、崇峻三年には櫻井寺があった。ただし、四天王寺は推古元年に造り始めているので、崇峻元年が推古元年のことである。

三年五月戊午朔は正しい日干支、高麗僧の惠慈が帰化した。高麗は秦王国の友好国、太子は麻伊古大連の可能性が高い。五年夏四月丁丑朔も正しい日干支、倭・秦王国の記事で、百済が朝貢した。

冬十一月癸酉朔は俀国の暦、新羅に使者を派遣し秋波を送っている。俀国は新羅、倭国は百済と友好国が決まり、白村江に繋がったのだろう。それに対して、新羅は六年秋八月己亥朔、正しい日干支、孔雀を秦王国に送った。冬十月戊戌朔は俀国の暦で、越が白鹿を献上した。外交の主導権を争っている。

 

年候補

丙寅3月朔 599 630

 丙寅230日晦日、3月2日該当なし

2026年1月21日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇1

  推古天皇は『舊事本紀』によれば、576年18歳で妃になり、天皇は592年34歳で崩御した。592年崩御した天皇は崇峻天皇(守屋)で、崇峻天皇の婦人は布都姫夫人である。『舊事本紀』は『古事記』も『日本書紀』も知っているので、皇妃になった歳、死別した歳、天皇の在位期間5年を知っている。39歳即位は両書に対応させた結果だろう。『新唐書』は多利思北孤が用明天皇と理解しているので、推古天皇時は崇峻と用明は同時に天皇だったと理解されているはずだ。

豐御食炊屋姫の娘婿は俀国王と考えられる彦人、俀国皇太子聖徳、倭国初代天皇舒明だ。彦人は『隅田八幡神社人物画像鏡』によると、推古三十一年・623年に大王になったようだ。上宮法皇が薨去したのが622年、翌年皇太子を引き継いだのだろう。彦人の妃は贄古大連と布都姫の娘の小墾田皇女だ。小墾田宮で生まれたから小墾田皇女と名付けられるのは合理的だ。

入鹿は乙巳の変が664年に起こっているので、年齢的に鎌媛大刀自の孫にあたる。入鹿の祖母が弓削大連の妹、守屋の子が弓削と鎌媛大刀自(田眼皇女)、田眼皇女の夫は豊浦舒明天皇、子が蝦夷、孫が入鹿だ。菟道皇女は東宮聖徳妃、593年に皇太弟になった上宮法皇の妃によく合致する。

『舊事本紀』の冬十二月壬申朔の「皇后即天皇」は俀国の暦、東漢直駒の妃の河上娘が倭王に即位したのだろう。推古紀を記したのが蘇我氏、理に適う。推古天皇が39歳で即位となっているのだから、それまでは駒が倭王だったのかもしれない。元年春正月壬寅朔は正しい日干支、法興寺が建設中である。法興帝が即位した記念に建立するのは理解できる。法興帝の畿内出張所なのかもしれない。法興寺建立が588年の崇峻元年になっているが、『舊事本紀』に従うならば、593年になる。「法興」という漢語、文字が普及した秦王国と法興帝、どちらが相応しいのだろうか。

2026年1月19日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇峻天皇

  用明二年八月癸卯朔は正しい日干支、崇峻天皇が即位した。『日本書紀』は大臣が蘇我馬子宿禰、『舊事本紀』では誰も賜姓されていない。馬子すら大臣と記していない。『舊事本紀』においては、守屋が敏達十四年九月から大連という天皇だ。布都姫が皇后である。

倭国は崇峻元年三月に長谷部若雀が稲目の王朝を継承した。稲目の娘の小姉君の婿の薨後、小姉君の娘の穴穗部間人が倭女王、皇祖母となった。倭王位は夫から兄弟に遷ったに過ぎず、最高権力者は変わっていない。崇峻天皇に皇后が記されない理由だ。

 大伴糠手連の娘の小手子は日付を記述せず『古事記』にも記述がない。これは、俀国の記事と考えられる。馬子の子が夫ならば、馬子の娘婿が俀国皇太子と思われる東漢直駒と、互いに姻戚関係を密にしたことになる。政略としては理に適う。馬子の妃は不明だが、目大連の子に馬古が存在し、目大連、すなわち大伴氏(?小手子)の婿になったのだろう。同世代に有名人同士が同名はないのでは?

二年秋七月壬辰朔は正しい日干支、東国視察の記事は守屋が東方も勢力下にしたのだろう。四年夏四月壬子朔も正しい日干支、「葬譯語田天皇」は奇異で、591年は法興元年、前俀国王を埋葬したのだろうか。ただし、俀国は晦日が朔なので、倭王や秦王国王が参列した記録なのだろうか。それとも、小姉君が薨じたのだろうか。秋八月庚戌朔、冬十一月己卯朔は正しい日干支、朝鮮関係の外交は秦王国と倭国が完全に主導権を得たようだ。

 五年冬十月癸酉朔も正しい日干支で、守屋と馬子の確執の発端となった。そして、十一月癸卯朔も正しい日干支、馬子の娘の河上娘の婿の東漢直駒が泊瀬部天皇を殺害した。

2026年1月16日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 用明天皇

   九月甲寅朔戊午は正しい日干支、御狩が即位、太子が守屋だ。『舊事本紀』では、敏達天皇の崩御が587年、用明二年、守屋が大連と大臣を兼ねたということは、守屋が倭国の大臣を兼ねたのだろう。橘豐日は『古事記』によると585年の崩で、穴穗部皇子と考えられる。用明天皇が穴穗部間人皇女に婿入りして穴穗部と名乗った。実質の倭国の権力者は稲目の娘の石寸名の婿の馬子だ。

堅鹽媛は稲目を襲名した後継者の妃、小姉君は尾輿の妃、先代の稲目は弓削連の祖の倭古連と呼ばれたと考えられる。堅鹽媛の娘の豊御食炊屋姫も夫が守屋、弓削連と呼ばれる。

 元年春正月壬子朔は正しい日干支、穴穗部間人皇女を皇后にした。穴穗部間人が実質の用明天皇と解る。この世紀の倭国は皇祖母、夫人が治める女帝の時代とも呼べる。二年夏四月乙巳朔も正しい日干支で、新甞祭を行った。

六月甲辰朔も正しい日干支で穴穗部皇子は6月に崩じ、秋七月甲戌朔甲午は正しい日干支で、磐余池上陵に葬られた。7月に廐戸皇子が守屋と戦うが、「束髮」、すなわち、15・16歳と記している。これは、593年になれば成人、昼になったら弟に成務を任せられる。591年即位の法興帝の皇太弟にピッタリな年齢だ。菟道皇女を妃にしたのが聖徳法皇の可能性が高くなった。『新唐書』は橘豊日を目多利思比孤だと記している。多利思比孤は591年即位した。菟道皇女が干食王后なのか。それとも、聖徳太子が多利思比孤、菟道皇女が鬼前太后か。

2026年1月14日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 敏達天皇2

  五年春三月已卯朔も俀国の日干支だ。豊御食炊屋姫が576年18歳で皇后になったのならば、敏達十四年は廿七歳、『舊事本紀』によれば、卅四歳に渟中倉太玉敷崩御、この年が587年、587年は用明崩御の歳、卅九歳は592年で崇峻崩御である。すなわち、『舊事本紀』の豊御食炊屋姫は崇峻皇后の布都姫夫人である。そして崇峻天皇は守屋である。587年は用明天皇が崩御、584年、敏達十三年に三代目稲目の宮の王、おそらく、馬子の義母の小姉君が皇祖母で崩御した可能性がある。二人の推古天皇、この皇后は『舊事本紀』の推古天皇ではない。

六年春二月甲辰朔は正しい日干支、日祀部と私部を置いた。夏五月癸酉朔、冬十一月庚午朔も正しい日干支、百済に大別王と小黒吉士目を大使に派遣した。大別は仁徳天皇の末裔と考えられ、扶桑国王、既に寺を持っていた。七年春三月戊辰朔も正しい日干支で、橘豊日の皇子池邊皇子が菟道皇女を妃にした。代わりに酢香手姫が伊勢に派遣されたのだろう。この菟道皇女は東宮聖徳妃、彦人の(?義)弟が聖徳太子だ。彦人は俀国王、妃が小墾田皇女、廣姫の娘の菟道皇女は義姉妹を子に含めたのだろうか。それとも、俀国皇太弟、聖徳の妃として含めたのだろうか。『上宮聖徳法王帝説』には菟道皇女は妃とされない。『新唐書』には用明=俀国王、皇太弟が上宮法皇である。

十二年秋七月丁酉朔も正しい日干支で、任那復興のため百済に使者を派遣した。十三年春二月癸巳朔は俀国か朝鮮の日干支、難波吉士木蓮子を新羅に送り、任那に行った。十四年春二月戊子朔は正しい日干支、蘇我大臣が塔を建て、大法会を行った。三月丁巳朔は俀国の日干支、馬子は俀国から稲目の宮に婿入りしたのだろう。秋八月乙酉朔も正しい日干支で、『舊事本紀』も同様だ。御狩の崩御である。

2026年1月12日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 敏達天皇1

    敏達紀も基本的に欽明紀と同じ状況で、記述したのは馬子が中心だ。正しい日干支は秦王国と倭国、九州の暦は俀国と朝鮮記事だろう。天皇は世代を考えると秦王国が二代目の尾輿、太子が御狩、倭王は三代目の稲目?太子が馬子だろう。御狩の子が守屋の孫を妃にしているので、世代がもっと後だ。『古事記』によれば三代目の稲目の薨去は584年(敏達十三年)である。

元年夏四月壬申朔は正しい日干支、三代目の稲目が即位した。『舊事本紀』は物部大市御狩が大連だが、尾輿、天皇、世代的に皇太子になったのだろう。

『日本書紀』は守屋(初代?)が大連だが、初出は敏達十四年、大臣(弓削)になっている。馬子が倭王、皇太弟が守屋になったのだろう。五月壬寅朔も正しい日干支、高句麗の使者が大井宮に迎えられた。

二年夏五月丙寅朔は俀国の日干支、大伴氏の後ろ盾の吉備は俀国領だったようだ。吉備五郡も俀国領だったものを、倭国と秦王国で分けた。秋七月乙丑朔も俀国の暦ならば、この難波は福岡になる。もしかすると、高句麗の暦なのかもしれない。秦王国の暦ならば共に542年になる。

八月甲午朔、三年夏五月庚申朔、秋七月己未朔も正しい日干支で高句麗の使人についての説話である。冬十月戊子朔丙も正しい日干支で、馬子大臣がさらに俀国領の吉備から領地を奪った。

四年春正月丙辰朔は俀国の日干支、廣姫は俀国の后のようだ。菟道磯津貝皇女は橘豐日の妃にしたが、聖徳太子妃とある。『日本書紀』編者は橘豐日イコール聖徳太子と理解している。二月壬辰朔は間違いの日干支で、574年が正しいのだろう。馬子が倭国太子になって京に上り、復命ではなく命令された。夏四月乙酉朔は正しい日干支で、新羅・百済・任那に使者を送った。

 

年候補

丙寅5月朔日 542 666

乙丑7月朔日 485 542 609

壬辰2月朔日 517 543 574 641

2026年1月9日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇3

  十五年春正月戊子朔も正しい日干支だが、立太子なので俀国の王朝交代と考えられる。火中君が王になったのだろう。廿九年にも立爲皇太子の記事がある。三月丁亥朔と夏五月丙戌朔も正しい日干支で、百済関係の記事だ。秋七月己卯朔も正しい日干支で、倭国が吉備も配下にした。三月丁亥朔、夏五月丙戌朔も正しい日干支で、百済威徳が即位した554年以降598年まで、高句麗との戦乱がない。秦王国の仲介のおかげなのだろうか。秋七月己卯朔も正しい日干支、吉備五郡を倭国稲目と秦王国穂積氏とで分け合っている。

秋七月甲戌朔は俀国の暦で、備前兒嶋を葛城山田直に与え、備前兒嶋は俀国領だったのだろう。直と同じ、もしくはそれ以上の位の田令という地位だったのを追認したのだろう。十八年春三月庚子朔は正しい日干支、しかし、威徳王は554年(欽明十五年)に即位したことになっているがこの年に正式に王となったのか。百済は戦乱が続き、王位が空白だったのだろう。

秋七月己巳朔も正しい日干支、新羅が任那を滅ぼし、新羅人が河内に入植した。秦王国が新羅も援助していたことが理解できる。卅年春正月辛卯朔も正しい日干支、国が安定し籍を定めた。卅一年春三月甲申朔も正しい日干支、稲目が薨じた。稲目の宮は584年まで、廣國押武金日死後の宣化元年536年から渟中倉太珠敷崩御までの49年間続いている。建小広国押楯から続く宮だったのだろう。

夏四月甲申朔、秋七月壬子朔も正しい日干支、高麗使人が越に流れ着いた。即位若干の王、当然稲目の後継の倭王である。卅二年春三月戊申朔も正しい日干支だが、相手は新羅、秦王国は新羅の任那併合を許しているので、これも倭国の説話だろうか。倭国は白村江で百済側、新羅と敵対している。夏四月戊寅朔も正しい日干支、天皇寢疾不豫と危篤状態になった。秋八月丙子朔も正しい日干支、新羅の弔使も秦王国への弔使だ。