2025年12月26日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 安閑天皇1

  継体廿五年春二月辛丑朔は九州の暦、安閑即位の記事で大漢国王が即位したのだろう。 安閑531年元年三月癸未朔は間違いの日干支、534年が正しい。『百濟本記』に合わせた結果のようである。『日本書紀』は中国や朝鮮の史書を無いはずの景初3年があったとしたように間違っていても、他王家の事も信用して、自王家の説話にしていた。

 春日山田皇女は麁鹿火の妃、安閑天皇は大伴大連を「大伴伯父今作何計」とあるように伯父と呼び、麁鹿火の伯父は大目、大伴大連と大目大連は兄弟か親子で同じ王朝である。531年即位は倭国王廣國押武金日、534年即位は秦王国王の麁鹿火だ。

 元年夏四月癸丑朔も間違いの日干支の534年、東国王位の象徴の「珠」を差し出すように求められ、東国は斯鬼宮大王の上毛野君(?獲加多支鹵)が勢力下に置いた可能性がある。東山道十五國都督は須羽に置かれていた可能性がある。秋七月辛巳朔も534年倭国九州の日干支、河内の領地を奪い合った。冬十月庚戌朔も間違いの日干支で534年、大伴大連金村の言葉で、新たな領地に屯倉や部を置いた。閏十二月己卯朔壬午は535年1月2日(12月は小の月)のようだ。三島県主は仁賢朝大連の木蓮子の妃が三尾君の祖の娘、宣化妃の橘皇女はその娘と思われ、その説話のようだ。

 

年候補

辛丑2月朔日 495 562 624

辛丑130日晦日531

癸未3月朔日 498 534 565 591 622

癸丑4月朔日 534 565 627

辛巳7月朔日 498 565 622

辛巳630日晦日 477 508 534 601

庚戌10月朔日 472 534 565

己卯 52911月朔日 53512(12月小の月) 53911月晦日

2025年12月24日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 継体天皇2

  廿年秋九月丁酉朔の磐余玉穗遷都は間違いの日干支で、おそらく490年9月2日、8月は小の月の九州の暦である。巨勢氏は白雉年間に豊足臣の子の巨勢臣薬が記されるように豊国に関係をもつ。『古事記』では大長谷若建が489年に崩じ、490年が袁本杼元年である。倭国勢力に追われて、磐余から弟国へ逃れたのだろうか。

 秋八月辛卯朔の磐井に関する記事も間違いの日干支で527年7月30日晦日の日干支だ。廿一年夏六月壬辰朔は正しい日干支で磐井が反乱を起こし、八月に「筑紫以西汝制之」と分割案を示し、よく符合する。廿二年冬十一月甲寅朔は九州の日干支で、九州での記録、翌月糟屋を葛子は割譲した。筑紫以西を得たのは蘇我氏の大漢国、 『古事記』によれば527年男人は薨じた。

継体二十五年531年の天皇崩は3年のズレがあり、継体二十二年528年の崩御だろう。「日本天皇及太子皇子倶崩薨」とあるように、継体二十二年に女国王、翌年、太子の襲名した二世男人が薨じた。巨勢王朝の滅亡である。

 二十三年夏四月壬午朔は正しい日干支で任那が助けを求め、対応者は金村大連、任那・百済は俀国が後ろ盾、新羅・高句麗は畿内が友好関係を持っている。金村は俀国側の人物とわかる。廿四年春二月丁未朔も正しい日干支で、武烈天皇時から金村が皇位を奪取して24年たったと述べた。

 継体帝は「時年八十二」なので、531年か534年から82年前、大伴氏の室屋は450年か453年に倭王(漢直)興の分家した東漢直、後の俀国王の家系のようだ。

 

年候補

丁酉9月朔日 464 593 650

丁酉830日晦日 500

丁酉92 490(8月は小の月)

 

辛卯8月朔日 491 496 553 620

辛卯730日晦日 527

2025年12月22日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 継体天皇1

  元年春正月辛酉朔は正しい日干支で、品太五世の孫は巨勢男人の経歴だろう。一世代20年、394年崩御が品太なのだから、相応しい。『古事記』は袁祁と小長谷若雀の内容が乏しいのに対し、袁本杼は少し記述がある。それは『古事記』を編んだ蘇我氏の建国の原因だったからだろう。安閑天皇と思われる麁鹿火は宣化元年の崩、安閑二年に崩御したのは大漢国王の広国押建金日だ。

弘計の埋葬が519年と考えられたのは、この前年が武烈朝大連の麻佐良の崩御なのではないだろうか。継体天皇は最初から磐余玉穗宮で即位しているので、樟葉宮、五年山背筒城、十二年春三月丙辰朔甲子の弟国遷都は異なる王朝、おそらく、男人や麁鹿火達の遷都だ。517年に継体年号の建元、518年武烈崩御と武烈の後継者が弟国へ遷都、後継者が安閑二年の崩御を想定している。『舊事本紀』は継体の崩を継体二十八年534年と書き直している。531年の継体崩御は磐井の崩御だろう。

元年三月庚申朔は正しい日干支で、麁鹿火が手白香皇女を皇后にした、すなわち即位した。二年冬十月辛亥朔も正しい日干支で、倭彦王の埋葬と考えた。六年夏四月辛酉朔も正しい日干支で、穗積臣押山の記録。磐井が献上品の馬を奪った。百済の記事の、七年秋八月癸未朔は2日、前の月は小の月だ。七年冬十一月辛亥朔は正しい日干支で前の月は大の月、百済は倭国と同じ中国風の暦と解る。

七年十二月辛巳朔は正しい日干支で継体天皇が即位したことを記す。海内は黄海を示し、「懿哉摩呂古」と倭媛の子の椀子皇子に呼び掛けている。九年春二月甲戌朔は正しい朔日の日干支で、百済の使者が帰った。十二年春三月丙辰朔も正しい日干支で、巨勢大臣が弟国へ遷都した。

2025年12月19日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 武烈天皇

仁賢十一年秋八月庚戌朔、冬十月己酉朔は正しい日干支、崩御・埋葬は通常の皇位継承のようだ。『古事記』は武烈天皇が編んだようで、袁祁から小長谷若雀の崩御日を記さず、父の意祁の英雄譚が記される。袁祁は分家筋、本家の自分の王家は父親がまだ生存しているから、父の崩御日を記していない。完成させた蘇我氏は平群・巨勢氏を継承しているので、袁本杼の崩御日は記した。斉の時、乙祁の名を記すだけなので、宮も列城宮のままだ。小長谷若雀は意祁の名を継承した可能性がある。

仁賢十一年冬十一月戊寅朔戊子は正しい日干支。『日本書紀』は鮪と稚鷦鷯の戦乱を記し、『舊事本紀』は武烈元年として、同じく冬十一月戊寅朔に平和的に皇位に就いた。実質は、平群氏と巨勢氏の戦いだったのだろう。

元年春三月丁丑朔は正しい日干支で天皇即位ではなく皇后が即位した。春日娘子は同時に麻佐良も大連に即位していて、須羽直の娘の妹古の可能性がある。旧扶桑国の再統一だ。

六年秋九月乙巳朔は9月2日、8月が小の月の日干支で九州・吉備の暦だ。小泊瀬舍人を置いた。八年冬十二月壬辰朔も同様で、12月2日、11月が小の月の日干支で九州・吉備の暦だ。正しい日干支の継体二年冬十月辛亥朔癸丑に埋葬と記す。倭彦王の可能性が高い。三尾君の妹の倭媛は倭彦王の子か妹か。目大連の妃で、子の椀子は上殖葉大王の父だろう。椀子という有名な人物がいるのに、椀子の名をつけるなら、修飾が必要だ。天皇の埋葬で、河内の争奪戦が女国巨勢大臣と麻佐良の太子の麁鹿火大連、そして、倭を後ろ盾にした大伴氏によって始まる。そして、戦乱に乗じて、蘇我氏が倭国からの独立を図った。

2025年12月17日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁賢天皇

  元年春正月辛巳朔の即位は吉備の暦の記録のようだ。488年、二月辛亥朔は正しい暦で皇后春日大娘石上廣高宮の記録だ。巨勢大臣の説話の可能性が高い。489年に大長谷若建が崩じている。弘計と億計の戦いには、平群氏と巨勢氏も参戦し、共に、損害が大きかったようだ。男人が女国大臣、億計(小前)が河内の天皇に即位した。億計は498年崩じ、新しい王を知らなかった斉朝が永元元年499年に記録する。扶桑国王は「乙祁」、合致する。

 冬十月丁未朔は間違いの日干支で、顕宗天皇の埋葬を519年に行った可能性がある。難波小野皇后が自死したということは、正常な皇位継承ではなかったことをここでも示している。継体天皇が即位して、葬ったのだろう。519年でなかったら、太陽暦からの変換で9月と間違えたか。『古事記』は太陽暦で編まれている。三年春二月己巳朔、城郭が不要だったところに石上部舍人を置いて守り、五年春二月丁亥朔、政敵の的臣蚊嶋・穗瓮君を排除、六年秋九月己酉朔、友好国の高句麗に日鷹吉士を送った。

 七年春正月丁未朔も正しい日干支だが、立太子は倭国の政権交代、武から磐井の家系に代わったようだ。継体年号は俀国の元号と考えられ、葛子か葛子の弟か子供が継体天皇なのだろう。倭国の権力闘争、畿内の権力闘争が磐井の乱だったのだろう。葛子は筑紫君、磐井は肥後に逃れ、葛子の子は筑紫・火君、その弟が火中君、磐井の領地を継承し。

 

年候補

丁未10月朔日 519 545 586 612年 

丁未930 462 555

丁未9月朔日 488

2025年12月15日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 顕宗天皇

  元年春正月己巳朔は正しい日干支、「大臣大連等奏言」は平群大臣と木蓮子大連の勢力が拮抗して、河内の主導権を取れなかったのだろう。その結果、難波小野王の婿の億計(小前)が木蓮子の子(?大前の婿の子)を近飛鳥八釣宮で即位させた。穴穂(大前)の甥の小前大連が皇太子なのだろう。

 二月戊戌朔壬寅は九州の暦、吉備も九州の暦を使っていた。逃れた播磨も吉備の領域だ。三月上巳(?己巳)の「幸後苑曲水宴」は『古事記』を編んだ仁賢・武烈の説話で、古代から続く、羲和が創った太陽暦の3月3日である。485年は春分が乙卯、これが3月の朔日とすると丁巳が3日になる。『古事記』は紀伝体、王朝が代わると暦が変わる。

『古事記』はほとんど仁賢天皇が創り、太陽暦を使っていた。豊御食炊屋比売の崩御日が戊子年の三月十五日癸丑、『日本書紀』は戊子年3月6日癸丑と異なる。羲和の太陽暦は1年366日なので、1年で1日ずれた。夏五月五日の「藥獵」も太陽暦、夏至の後に行わないと意味がない。陰暦の場合、30日の誤差も発生する。蘇我氏は文身国・大漢国を統治した氏族、吉備も含めて同じ暦を使っていたようだ。俀国は太陽暦と中国式陰暦を併用していた。

 夏四月丁酉朔・二年秋八月己未朔・冬十月戊午朔・三年春二月丁巳朔・夏四月丙辰朔は正しい日干支。『舊唐書』曰く「頗有文字」。文字が無かった倭国が文字に溢れる畿内に進出したのだろう。畿内朝廷内は文字が盛んで、城郭を造らなくても良いほど平和だった。仏教を導入し大別の屋敷には仏像が安置され、銀銭も使用し、経済も文化も良好だったようだ。

2025年12月12日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 清寧天皇2

清寧三年九月壬子朔は九州や吉備の暦で、倭王武が巡視したのだろう。冬十月壬午朔は正しい日干支で「犬馬器翫不得獻上」と生き物を献上するなと命じた。

清寧三年十一月辛亥朔と四年春正月庚戌朔は九州や吉備の暦で「宴臣連於大庭賜綿帛皆任其自取盡力而出」とあるように、倭王武が征東大將軍に昇進して、祝いの品が届いたのだろうか。四年春正月庚戌朔も九州や吉備の暦で、「宴海表諸蕃使者於朝堂賜物各有差」と倭王武が朝堂に海岸沿いの王を集めて、賜物した。朝堂は643年皇極二年、660年斉明天皇六年の倭国の時代や690年の大宰府に存在した。鎮東大将軍武の朝廷にはピッタリだ。

483年清寧四年九月丙子朔も九州の日干支で、「天皇御射殿詔百寮及海表使者射賜物各有差」と賭射を行ったと述べている。倭王武は478年升明二年に「東征毛人五十五國西服眾夷六十六國陵平海北九十五國」と216国を勢力下にしたと宣言した。それらの国からの贈物を自国の配下に湯水の如く分け与えたのだろう。毛人の海岸は4つ有り1国15㎞とすると、吉備が境界になる。

清寧四年秋八月丁未朔癸丑は正しい日干支で、「天皇親録囚徒」とあるように、天皇自らが囚人から聞き取りを行い、それによって、蝦夷や隼人を配下にしたと述べている。『宋書』を見て、毛人を蝦夷ととらえたのだろうか。

清寧五年春正月甲戌朔己丑は九州や吉備の暦で、「天皇崩于宮」と記述される。この崩御した天皇は皇太子星川の兄の磐城(?大伴談)と考えられる。484年清寧五年冬十一月庚午朔戊寅は正しい日干支で、「河内坂門原陵」と河内に葬られ、この王が河内で生まれた天皇だったことが解る。『舊事本紀』に「六年十一月庚午朔戊寅葬于河内板門原陵天皇無胤」とあるように、後継女王が無く、分家の丘稚子の娘の難波小野王を妃にした億計が後継者だったが、弘計に譲った。