2026年1月9日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇3

  十五年春正月戊子朔も正しい日干支だが、立太子なので俀国の王朝交代と考えられる。火中君が王になったのだろう。廿九年にも立爲皇太子の記事がある。三月丁亥朔と夏五月丙戌朔も正しい日干支で、百済関係の記事だ。秋七月己卯朔も正しい日干支で、倭国が吉備も配下にした。三月丁亥朔、夏五月丙戌朔も正しい日干支で、百済威徳が即位した554年以降598年まで、高句麗との戦乱がない。秦王国の仲介のおかげなのだろうか。秋七月己卯朔も正しい日干支、吉備五郡を倭国稲目と秦王国穂積氏とで分け合っている。

秋七月甲戌朔は俀国の暦で、備前兒嶋を葛城山田直に与え、備前兒嶋は俀国領だったのだろう。直と同じ、もしくはそれ以上の位の田令という地位だったのを追認したのだろう。十八年春三月庚子朔は正しい日干支、しかし、威徳王は554年(欽明十五年)に即位したことになっているがこの年に正式に王となったのか。百済は戦乱が続き、王位が空白だったのだろう。

秋七月己巳朔も正しい日干支、新羅が任那を滅ぼし、新羅人が河内に入植した。秦王国が新羅も援助していたことが理解できる。卅年春正月辛卯朔も正しい日干支、国が安定し籍を定めた。卅一年春三月甲申朔も正しい日干支、稲目が薨じた。稲目の宮は584年まで、廣國押武金日死後の宣化元年536年から渟中倉太珠敷崩御までの49年間続いている。建小広国押楯から続く宮だったのだろう。

夏四月甲申朔、秋七月壬子朔も正しい日干支、高麗使人が越に流れ着いた。即位若干の王、当然稲目の後継の倭王である。卅二年春三月戊申朔も正しい日干支だが、相手は新羅、秦王国は新羅の任那併合を許しているので、これも倭国の説話だろうか。倭国は白村江で百済側、新羅と敵対している。夏四月戊寅朔も正しい日干支、天皇寢疾不豫と危篤状態になった。秋八月丙子朔も正しい日干支、新羅の弔使も秦王国への弔使だ。

2026年1月7日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇2

  九年夏四月壬戌朔は正しい日干支、百済が劣勢で、秦王にも泣きついた。百済を北でなく、西藩と呼ぶのだから、畿内の国である。六月辛酉朔も太陽の位置計算では閏5月1日だが、正しい日干支の可能性が高い。高句麗からの攻撃は任那と百済で自衛するよう、見放している。閏七月庚申朔は俀国の記録で7月2日、閏月がずれているので、閏七月は7月、6月は小の月だ。十年夏六月乙酉朔は正しい日干支、高句麗に使者を送ったと記している。秦王国は高句麗と友好関係である。

十一年春二月辛巳朔も正しい日干支だが、内容は『百濟本記』の内容で、この天皇は俀国の天皇、百済に援助している。百済は3月11日を12日として、俀国と同じ暦である。夏四月庚辰朔も俀国の日干支で、高句麗の捕虜を俀国に送っている。十三年五月戊辰朔は正しい日干支、河内部阿斯比多の報告を受けている。十四年春正月甲子朔も正しい日干支、百済は秦王国にも助けを求めている。

夏五月戊辰朔は間違いの日干支で552年が正しい。河内国の説話で、552年4月に薨じた箭田珠勝大兄のために像を創ったと思われる。仏像の初出は501年に室屋大連が命じた。倭国への仏教伝来の前、『梁書』の扶桑国を思わせる。その後、545年、おそらく、俀国に百済から丈六佛像を贈られた。百済から援軍を求めて、釋迦佛金銅像や経典を贈られた。秦王国の仏教は別ルートで入っているので、稲目に任せた。

秋七月辛辛酉朔は正しい日干支、稲目が船史を賜姓した。敏達前紀に船史の祖、敏達三年に船史となっているので、この時秦王国で承認された。八月辛卯朔も正しい日干支、百済からの援軍依頼である。冬十月庚寅朔も正しい日干支、倭国と百済が友好関係を維持しているようだ。

 

年候補

戊辰5月朔日 428 552 645

戊辰430日晦日 588

戊辰52 516 578

2026年1月5日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇1

   539年冬十二月庚辰朔の天國排開廣庭の即位は正しい日干支で天國排開廣庭、大伴金村、物部尾輿、蘇我稻目宿禰が俀国、秦王国、倭国の天皇や太子になった。皇后を皇太后としたということは、秦王国の天皇である新皇后が決まったことを意味している。雄略天皇が皇太后を贈って以来の皇太后だ。皇太后は王朝交代時のセレモニー。伝統に法る秦王国誕生と考えられる。

また、『舊事本紀』はこの539年を元年としているので、欽明元年540年は倭国稲目の元年なのだろう。即位時が「時年若干」、廣國押武金日が435年に崩じ、皇太弟の初代稲目の武小廣國押盾も戦乱で崩じ、稲目は19歳で成人していなかったのだろう。そのため、年が明けて20歳で成人となり、元年となる。短期間の王の交代は正常な状況とは思えない。

 二月壬申朔の百済人の倭国投下は正しい日干支で、稲目の記録だろう。倭は太陽暦、正しい日干支に変換したのだろう。三月壬寅朔の蝦夷・隼人の帰属は3月2日、前月は小の月で俀国の暦だ。上殖葉の記録なのだろう。俀国は欽明十七年に葛子の婿と思われる火君と葛子の実子の火中君兄弟が即位しているので、火中君が皇太弟で、共に若いのだろう。

 秋七月丙子朔の遷都は正しい日干支で稲目が磯城嶋宮に住まいを遷した。九月乙亥朔の難波祝津宮行幸も正しい日干支で秦王国の首都が難波祝津宮のようだ。稲目が難波に参内、百済と通じて、任那の管理をした金村と倭王・秦王国王が対立したのだろう。二年冬十一月丁亥朔の津守連の任那派遣も正しい日干支、秦王の記録だ。

 七年春正月甲辰朔の百済の使者の帰国は九州の暦、百済に馬や船を与え、友好関係が見える。夏六月壬申朔は正しい日干支、秦王に百済が調(税)を納めた。九年春正月癸巳朔は九州の暦、百済の救援の依頼に助けると返事している。『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』の「事典曹人名无利弖」はこの時派遣されたのだろうか。

2025年12月31日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 宣化天皇

  二月壬申朔の大連任命は正しい日干支、倭国の武小廣國押盾が即位したのだろう。以降、倭国の記録も正しい日干支で記されている。『古事記』が太陽暦で記されているように、倭国蘇我氏は太陽暦、正しい日干支への換算が容易だったと考えられる。俀国は『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』から解るように、中国風の旧暦である。

二月壬申朔の皇后擁立は正しい日干支で崩じた麁鹿火の皇后の代わり、押甲の妃が皇后になったようだ。三月壬寅朔の皇后擁立は俀国の日干支で3月2日の日干支、2月は小の月である。『舊事本紀』は宣化二年と記し、押甲と麁鹿火が分裂王朝だったようだ。麁鹿火大連の薨は元年七月、安閑二年が押甲即位である。 夏五月辛丑朔の調に関する詔勅は正しい日干支、秦王国の記録で、筑紫・肥・豊の国はやはり統治下ではない。

二年冬十月壬辰朔は「新羅冦於任那」とあるように朝鮮の暦である。新羅は秦王国にとっては友好国、倭国と俀国が百済と友好関係だった。大伴金村・磐親子が俀国と友好関係にあり、筑紫に留まった磐が俀国に婿入りした可能性が高い。

 四年春二月乙酉朔の「天皇崩」、冬十一月庚戌朔の「葬天皇」は正しい日干支で、皇后橘皇女の子の上殖葉が江田船山古墳の被葬者の主君なのだから、二代目金村の上殖葉が磐、その父の初代の金村崩御だ。倭と秦王国の反乱だったのだろうか。天皇・橘皇女・孺子が同時の崩薨、さらに、大連も尾輿に代わっているので、押甲も同時に崩じ、流行り病かクーデターが考えられる。

2025年12月29日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 安閑天皇2

  二年春正月戊申朔は2月朔日が正月だ。計算で求めると、1月30日が雨水なので、中気の決め方によって、閏月になる。534年12月に閏月があれば、正月朔日になる。梁書には大同元年春正月戊申朔とあり、大寒が12月29日晦日、雨水が1月30日、太陽の位置計算による閏月は2月にある。ユリウス数で算出した中気と日割りで決めた中気の違いである。古代人が簡単に決めることができるのは、冬至と夏至、春分と秋分。中気は簡単ではない。

夏四月丁丑朔は正しい日干支、「置勾舍人部 勾靭部」は秦王国の記事のようだ。五月丙午朔も同じく秦王国が中心になって恩賞を与えた。筑紫・豐國・火國・播磨國・備後國・婀娜國・阿波國・紀國・丹波國・近江國・尾張國・上毛野國・駿河國で領土が決まったようだ。

秋八月乙亥朔も正しい日干支だが、犬養部を置いたのだから、蘇我氏の記事のようだ。入鹿を殺害したのも稚犬養連網田、縣犬養連に天武朝で大伴鞍馬が記される。倭国は太陽暦と日干支を使用したため、変換が容易だったのかもしれない。九月甲辰朔は倭国の記事で櫻井田部連、縣犬養連、難波吉士が配下にいた。

冬十二月癸酉朔も正しい日干支で、秦王国の記録、麁鹿火の妃の春日山田皇女が崩じたようだ。「時年七十」と535年から70年前の466年(雄略十年)に春日大娘皇女の姉妹が分家した糠若子郎女(糠君の娘)、その娘が春日山田皇女なのだろう。

2025年12月26日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 安閑天皇1

  継体廿五年春二月辛丑朔は九州の暦、安閑即位の記事で大漢国王が即位したのだろう。 安閑531年元年三月癸未朔は間違いの日干支、534年が正しい。『百濟本記』に合わせた結果のようである。『日本書紀』は中国や朝鮮の史書を無いはずの景初3年があったとしたように間違っていても、他王家の事も信用して、自王家の説話にしていた。

 春日山田皇女は麁鹿火の妃、安閑天皇は大伴大連を「大伴伯父今作何計」とあるように伯父と呼び、麁鹿火の伯父は大目、大伴大連と大目大連は兄弟か親子で同じ王朝である。531年即位は倭国王廣國押武金日、534年即位は秦王国王の麁鹿火だ。

 元年夏四月癸丑朔も間違いの日干支の534年、東国王位の象徴の「珠」を差し出すように求められ、東国は斯鬼宮大王の上毛野君(?獲加多支鹵)が勢力下に置いた可能性がある。東山道十五國都督は須羽に置かれていた可能性がある。秋七月辛巳朔も534年倭国九州の日干支、河内の領地を奪い合った。冬十月庚戌朔も間違いの日干支で534年、大伴大連金村の言葉で、新たな領地に屯倉や部を置いた。閏十二月己卯朔壬午は535年1月2日(12月は小の月)のようだ。三島県主は仁賢朝大連の木蓮子の妃が三尾君の祖の娘、宣化妃の橘皇女はその娘と思われ、その説話のようだ。

 

年候補

辛丑2月朔日 495 562 624

辛丑130日晦日531

癸未3月朔日 498 534 565 591 622

癸丑4月朔日 534 565 627

辛巳7月朔日 498 565 622

辛巳630日晦日 477 508 534 601

庚戌10月朔日 472 534 565

己卯 52911月朔日 53512(12月小の月) 53911月晦日

2025年12月24日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 継体天皇2

  廿年秋九月丁酉朔の磐余玉穗遷都は間違いの日干支で、おそらく490年9月2日、8月は小の月の九州の暦である。巨勢氏は白雉年間に豊足臣の子の巨勢臣薬が記されるように豊国に関係をもつ。『古事記』では大長谷若建が489年に崩じ、490年が袁本杼元年である。倭国勢力に追われて、磐余から弟国へ逃れたのだろうか。

 秋八月辛卯朔の磐井に関する記事も間違いの日干支で527年7月30日晦日の日干支だ。廿一年夏六月壬辰朔は正しい日干支で磐井が反乱を起こし、八月に「筑紫以西汝制之」と分割案を示し、よく符合する。廿二年冬十一月甲寅朔は九州の日干支で、九州での記録、翌月糟屋を葛子は割譲した。筑紫以西を得たのは蘇我氏の大漢国、 『古事記』によれば527年男人は薨じた。

継体二十五年531年の天皇崩は3年のズレがあり、継体二十二年528年の崩御だろう。「日本天皇及太子皇子倶崩薨」とあるように、継体二十二年に女国王、翌年、太子の襲名した二世男人が薨じた。巨勢王朝の滅亡である。

 二十三年夏四月壬午朔は正しい日干支で任那が助けを求め、対応者は金村大連、任那・百済は俀国が後ろ盾、新羅・高句麗は畿内が友好関係を持っている。金村は俀国側の人物とわかる。廿四年春二月丁未朔も正しい日干支で、武烈天皇時から金村が皇位を奪取して24年たったと述べた。

 継体帝は「時年八十二」なので、531年か534年から82年前、大伴氏の室屋は450年か453年に倭王(漢直)興の分家した東漢直、後の俀国王の家系のようだ。

 

年候補

丁酉9月朔日 464 593 650

丁酉830日晦日 500

丁酉92 490(8月は小の月)

 

辛卯8月朔日 491 496 553 620

辛卯730日晦日 527