実際には、卑弥呼の使節は、238年末にはすでに詔書を受けていた。さらに、その同じ月に、魏の明帝は崩御していた。つまり、神功皇后は、「詔書を受けた年」も、「天子の崩御」も、『日本書紀』上では、これらの事実を「詔書を受けた本人」が何時だったかわかっていなかったことになる。この矛盾が意味するもの。それは、『日本書紀』編者たちが、〝景初年号のトリック″に引っかかったということ。
本来の歴史を「神功皇后=卑弥呼」という構図に当てはめるために、年表が意図的に修正されたということ。この〝編集″の結果、邪馬台国に関する記憶や情報は、神功皇后の物語に重ねるかたちで描かれた。
『舊事本紀』の神功元年は多遅麻大連元年の西暦202年、卑弥呼元年も201年ではなく、202年だった? 橿日宮=邪馬台国の都。神功皇后=卑弥呼と壹與の影を継ぐ〝倭の女王″。『日本書紀』の編者は、邪馬台国の首都が橿日宮にあったと信じていた。詔書を238年ではなく239年に受けたと信じていた。『日本書紀』の編者は、『三国志』を本当に信じていた。そしてその信仰が、神功皇后という女王像に、卑弥呼の記憶を静かに、しかし確かに重ねていったのだ。 『日本書紀』の編者は『三国志』を、『後漢書』を、『漢書』を、『山海經』を信じ、君子国王を初代神武天皇、東鯷人の畿内統一を崇神天皇と信じた。