西暦58年垂仁八十七年春二月丁亥朔辛卯も正しい日干支で、記事は「五十瓊敷命謂妹大中姫曰我老也不能掌神寶」とある。天皇五十瓊敷(大筒木眞若)が妹の大中姫(八坂八坂入媛)に天皇の璽を委譲した記事だろう。そして、「大中姫命授物部十千根大連而令治」と夫の十千根に天皇の璽を委譲した。十千根が最高実力者になった。
十千根は穴太足尼、穴太に遷都した天皇、纏向天皇にとっては足尼である。『日本書紀』では、正統な政権が纏向政権だが、大臣・大連を記述せず、内容は『古事記』と同じように、師木から高穴穂への政権を記述している。景行天皇が『日本書紀』上では、景行五八年に、まだない高穴穂宮に遷っている。『日本書紀』通りなら、何もない高穴穂に行って、3年間掛かって高穴穂宮を造ったことになる。ところが、それ以前に、ないはずの穴太足尼が存在するのだから、垂仁八十七年にまだ首都纏向でない首都穴太宮があっても不都合はない。高穴穂宮は60年より長い107年続いたと『日本書紀』で記述している。すなわち、景行13年から穴太に分家の大玉の宮(高穴穂宮)が存在した可能性が高い。
西暦59年垂仁八十八年秋七月己酉朔戊午も正しい日干支で、「新羅王子天日槍初來之時將來寶物今有但馬」。61年垂仁九十年春二月庚子朔も正しい日干支で「天皇命田道間守遣常世國令求非時香菓」と記述される。正しい日干支なのだから、穴太足尼の外交で、娘が比咩古、纏向皇后の五十琴姫の母である。すなわち、纏向の王の夫である膽咋が穴穂に逃れ、女王比咩古が纏向を治めたのだろう。