2025年4月2日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話26 志紀縣主の祖の乎止与

  建稲種は乎止与と大印岐の娘の子だが、乎止与の父母は記述されていないので不明だ。十市根の子の志紀縣主・遠江國造の祖の物部印岐美は名前から大印岐と同一人物かとも考えられる。しかし、遠淡海國造が伊迦賀色許男の子の印岐美とあるように、十市根の兄弟と『舊事本紀』は記述し、世代のズレがあり、伊迦賀色許男の子の遠淡海國造の祖の印岐美は乎止与の義父のほうの大印岐のようだ。遠江國造は大印岐が十市根の前の世代、景行世代の彦狹嶋が東方を侵攻する以前なので、遠江はまだ支配地ではなく、遠い津が草津だったように、大津近辺が淡海、草津以北が遠淡海を意味した可能性が高い。

大印岐は八坂之入日子の世代、十市根の親の纏向珠城宮の世代、倭得玉彦の世代である。しかし、倭得玉彦は師木水垣朝末の襲名した建諸隅と考えられるので、纏向珠城宮世代の弟彦と同じ世代である。八坂之入日子は比古布都押之信の子の日子坐と大海姫の子で纏向珠城宮世代である。すなわち、大印岐の婿の乎止与も印岐、皇太子の五百之入日子の義父の乎止与の子の建稲種が印岐美(印君)である。

大海姫の子の海部直の祖を引き継いだ八坂之入日子は伊勢遺跡のある伊勢宮の豐鋤入日賣に婿入りして、安直の祖の水穗眞若と呼ばれた。水穗眞若は丹波美知能宇斯と義兄弟で、水穗眞若の子の山代之大筒木眞若は丹波道主の孫娘と考えられる丹波能阿治佐波毘賣に婿入りした。

山代之大筒木眞若は三野國造の弟彦である。三野國造は三野領主の弟彦が國造になったので、三野領主は八坂之入日子だった。そして、水穗眞若の兄弟の神大根(八瓜入日子)は初代伊理泥(大根)で、丹波道主の娘を妃に十市根(二代目伊理泥)が生まれた。十市根は八坂之入日子の娘の八坂之入日賣を妃に、山代之大筒木眞若は大根の娘の丹波能阿治佐波毘賣(弟比賣)を妃にした。古代の婚姻形態である。

師木天皇が彦與曽・沙本毘古と解り、倭志紀彦と呼べ、その娘の真鳥姫・阿邪美都比賣の婿が倭志紀縣主の祖の建新川・大印岐だ。志紀縣主の祖の印岐美は十市根の()兄弟で、三野國造の祖の大根の子の兄弟の建新川が大印岐、その娘婿の乎止与が迦迩米雷と考えられる。

2025年3月31日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話25 弟彦の兄弟とその子供

  筑紫豊國國造の祖を生む置部與曽は「倭者師木登美豐朝倉王」の曙立・倭建の義父と考えられる。そして、沼羽田之入毘賣の子に伊賀帶日子(『日本書記』は膽香足姫)、苅羽田刀辨の子に五十日帶日子と同一人物と思われる子が存在する。すなわち、沼羽田之入毘賣と苅羽田刀辨が同一人物と考えられる。その子の中の沼帶別・落別は大荒田の父に相応しい。そして、『日本書記』では綺戸邊と記述される、苅羽田刀辨の子の石衝別は、倭建の父と考えられる石衝別なので、弟比賣と共に止めた比婆須比賣だ。

弟国になったのが木国で、建内宿禰は、その弟国から木国の名を持って山代、後の平群県紀里に遷ったと考えられる。すなわち、山代事態も木国から持ち運んだ可能性もある。建内宿禰の母も木國造の妹、大荒田の父の落別も木國造の荒河刀辨の孫と考えられ、建内宿禰の子に波多臣の祖が存在することから、名前から沼羽田之入毘賣は相応しい。

弟彦の子の大海部直の祖の淡夜別は八坂之入日賣の兄弟の大筒木眞若、子の迦迩米雷が高穴穂天皇・穴太足尼・十市根の婿である。同じく、足尼の姓を持つ、置津與曽の子の筑紫豊國國造の祖の大原足尼は倭者師木登美豐朝倉王の曙立・倭建と推定した。師木縣主の祖は建新川と印岐美なので、丹波の遠津臣の婿が建新川・曙立、遠い津の草津の王家が師木の王家である。

彦與曽の子の甲斐國造の祖の大八椅は東山道十五國都督の彦狹嶋か子の御諸別、沙本の穴太部の別の祖の伊許婆夜和氣と考えられる。沙本の穴太部への分家なのだから、沙本の土地から穴太へ分家し、妹の阿邪美都比賣は、稻瀬毘古の妃で、沙本毘古は稻城にいた。稻城は恐らく入根の出城が纏向政権に対抗するため山代の相楽に造られ、佐波遲比賣(歌凝比賣)共々崩じたと考えられる。

大縫と小縫は大碓と小碓の可能性が高い。野洲がある十市の兄遠子に婿入りした押別(忍之別)が大碓ならば、大碓と兄比賣の子が兄日子で良く合致する。小碓は太子で、子が天皇なので、十市根・穴太足尼の娘の比咩古を妃にした初代の膽咋はよく合う。膽咋の娘婿は武諸遇、纏向珠城宮大連の子で、纏向珠城宮大連だが、父の大新河も子の多遅麻も日代宮大連なのだから、世代的に日代宮大連の可能性が高い。 

2025年3月28日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話25 弟彦の兄弟とその子供

  筑紫豊國國造の祖を生む置部與曽は襲津彦を生む葛比売の祖父の大荒田の父と考えられる。沼羽田之入毘賣の子に伊賀帶日子(『日本書記』は膽香足姫)、苅羽田刀辨(『日本書記』は綺戸邊)の子に五十日帶日子と同一人物と思われる子が存在する。すなわち、沼羽田之入毘賣と苅羽田刀辨が同一人物と考えられる。その子の中の沼帶別・落別は大荒田の父に相応しい。

弟国になったのが木国で、建内宿禰は、その弟国から木国の名を持って山代、後の平群県紀里に遷ったと考えられる。建内宿禰の母も木國造の妹、大荒田の父の落別も木國造の荒河刀辨の孫と考えられ、建内宿禰の子に波多臣の祖が存在することから、沼羽田之入毘賣は相応しい。建内宿禰は山代の内臣である。

弟彦の子の大海部直の祖の淡夜別は八坂之入日賣の兄弟の大筒木眞若、子の迦迩米雷が高穴穂天皇・穴太足尼・十市根の婿である。同じく、足尼の姓を持つ、置津與曽の子の筑紫豊國國造の祖の大原足尼は倭者師木登美豐朝倉王の曙立と推定した。師木縣主の祖は建新川と印岐美なので、丹波の遠津臣の子が建新川、遠い津の草津の王家が師木の王家である。

彦與曽の子の甲斐國造の祖の大八椅は東山道十五國都督の彦狹嶋か子の御諸別、沙本の穴太部の別の祖の伊許婆夜和氣と考えられる。沙本の穴太部への分家なのだから、沙本の土地から穴太へ分家し、妹の阿邪美都比賣は、稻瀬毘古の妃で、沙本毘古は稻城にいた。稻城は恐らく入根の出城が纏向政権に対抗するため山代の相楽に造られ、佐波遲比賣(歌凝比賣)共々崩じたと考えられる。稻瀬毘古は豐木入日子なのだろう。

大縫と小縫は大碓と小碓の可能性が高い。野洲がある十市の兄遠子に婿入りした押別(忍之別)が大碓ならば、大碓の子が押黒之兄日子と良く合致する。小碓は太子で、子が天皇なので、十市根・穴太足尼の娘の比咩古を妃にした初代の膽咋はよく合う。膽咋の娘婿は武諸遇、纏向珠城宮大連の子で、纏向珠城宮大連だが、父の大新河も子の多遅麻も日代宮大連なのだから、世代的に日代宮の可能性が高い。

2025年3月26日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話24 丹波道主の娘達

五百木部連の祖の若都保は五百木之入日子の父の十市根と考えられる。十市根の父の三野()國造の祖の大根の娘が兄比賣(兄遠子)と弟比賣(弟遠子)と記述される。すなわち、大根の妃が丹波道主の娘の弟比賣だから、大根の娘が弟比賣である。大根の娘の弟比賣は十市根の姉妹である。氷羽州比賣は豐鋤入日賣で伊勢(入町)の人物だ。

『日本書紀』では弟國で薨じたのが竹野媛(?弟比賣)で、『古事記』では弟比賣が比婆須比賣と同じ地域に残っている。すなわち、『古事記』の比婆須比賣は次の世代の八坂入日賣で弟比賣は妾の子だ。そして、『古事記』には表記が違う先代の氷羽州比賣が存在し大中津日子・十市根の母(義母)である。『古事記』は比婆須比賣と氷羽州比賣を別人と考えたようだ。そして、『古事記』で子を記述しない比婆須、眞砥野、弟比賣、そして、子を記述する氷羽州、沼羽田、阿邪美能伊理毘賣が存在する。妃の候補は比婆須、弟比賣、返されて、山代で薨じた歌凝、弟國で薨じた圓野比賣である。纏向宮から返されて、弟国で薨じた弟比賣・圓野比賣と、師木宮の弟国に残された弟比賣である。

このことから、沼羽田之入日賣が弟比賣、歌凝比賣は義姉妹で沙本毘古と共に稲城で薨じた佐波遲比賣と考えられる。弟国で薨じた圓野比賣は、阿邪美能伊理毘賣の可能性が高く、沙本の穴太部の別の祖を生むのだから沙本毘古の妃である。すなわち、『古事記』の弟比賣は大根の妃、その弟比賣が『舊事本紀』の日女だろう。

弟比賣は『日本書紀』で八坂之入日賣の娘、『古事記』では妾の子の娘とされる。従って、妾の子の夫は十市根と同一人物(兄妹)のように見なされる人物である。それは、大根と十市根を同一人物とした結果である。すなわち、妾の子を妃にしたのは、伊迦賀色許男(坐王)と山代縣主の祖の長溝の娘の子が大根なのだから、十市根の妹の婿は山代の男児が相応しく、八坂之入日賣の兄妹の山代の大筒木眞若はピタリと当て嵌まる。大中津比賣に神寶を委譲した印色入日子は、丹波道主の孫の弟比賣と思われる阿治佐波毘賣を妃にした大筒木眞若が合致しそうだ。

『舊事本紀』は真砥野比賣(阿邪美能伊理毘賣)の子を盤撞別と稻別を記述し、子の中に布多遲能伊理毘賣を含まないので、稻別は布多遲能伊理毘賣の夫と考えられる。その娘と考えられる布多遲毘賣は稻依別を生む。息長宿禰が稻依別ならば、妃の名が稻依毘賣なのは相応しい。

2025年3月24日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話23 倭得玉彦の娘達

  倭得玉彦の子には5男、大海部直の祖を生む弟彦や甲斐國造の祖を生む彦與曽、八坂之入日賣が生む五百木之入日子に繋がる五百木部連の祖などが存在する。これらは、高穴穂宮天皇の構成氏族である。ところが、5男以外に日女が記述され、5男の人物の妃を全く記述しない。そして、その子の世代も妃を記述しない。

これは5柱の比賣の婿が記述され、日女は跡取りを意味したと考えられる。そして、次世代も同様に比賣の婿や分家が記述されたと考えられる。勿論、垂仁朝が100年近くも続くのだから、5代程度の従妹婚があるので、兄弟・姉妹と記述される。『古事記』には比婆須比賣、眞砥野比賣、弟比賣の三娘と朝廷別しか記述せず、後で歌凝比賣を追加している。これは、朝廷別が分朝廷の纏向宮を開いた豐木入日子で、その妃が歌凝比賣すなわち佐波遲比賣を意味しているのだろう。

弟彦は弟国が出来てから、賜姓された名なのだから、すなわち、道主の娘の死によって名付けられたのだから、道主の跡取りの婿が弟彦である。日女は国名が無い比賣なのだから天皇(皇后)、同じように、国名が無い彦の彦與曽も天皇である。その天皇は、纏向と師木の天皇で、纏向天皇の豐木入日子・玉勝山代根古の妃の日女である。歌凝比賣は山代の相樂で崩じているので、(歌凝)比賣が佐波遲比賣である。

師木天皇の彦與曽は沙本毘古で、妃は沙本の穴太部の別の祖の伊許婆夜和氣を生む阿邪美能伊理毘賣と考えられる。佐波遲比賣と同時期に薨じた、弟國の淵に落ちて薨じた眞砥野(圓野)比賣と考えられる。弟彦が後代に三野國造になるのだから美濃に住む八坂之入日子で、妃は尾張國の三野の別の大中津日子(大中津比賣)を生む氷羽州比賣である。

2025年3月21日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話22 記録のある太子達

  膽咋の妃の比咩古以降の3妃は『古事記』で「負太子之名」の母達と考えられた。『古事記』の太子なのだから、御真木入日子や、伊久米伊理毘古や、大帯日子を継承した大臣である。

五百木之入日子は子が品陀真若、その娘の高木之入日賣が応神天皇尾綱根の妃である。中日賣は大雀を婿に迎えるのだから石之日賣の父の曾都毘古が妃である。すなわち、五百木之入日子は御真木入日子を継承し、尾綱根大臣が戊寅の年318年の十二月に崩じた。

大帯日子を継承したと考えられる若帯日子・建内宿禰大臣は乙卯の年355年の三月十五日に崩じた。すると、残った伊久米伊理毘古を継承した、倭建は印葉大臣が壬戌の年362年の六月十一日に崩じたと考えられる。

河俣稻依毘賣の夫は建部君の祖の稻依別(息長宿禰)で、子が多遅麻纏向大連の大多牟坂である。息長宿禰の妃に葛城の高額比賣が存在するが、娘の息長帶比賣は382年に薨じ、世代が異なる。

稻依別の義兄弟の弟橘媛の子に息長田別が存在し、子が杙俣長日子で、その娘の飯野眞黒比賣が須賣伊呂大中日子を生む。須賣伊呂大中日子は額田大中日子と考えられ、眞黒比賣が高木之入日賣である。大雀は中日賣の子なので、弟日賣の子が宇遲能和紀郎子の可能性が高い。

息長眞若中比賣の子に若沼毛二俣が存在し、弟日賣(眞若比賣)を妃にして、忍坂大中津比賣を生んでいる。『日本書記』は若沼毛二俣の母が弟媛で、すなわち、若沼毛二俣は弟日賣の娘の弟日賣(眞若比賣)の婿である。それは、河派仲彦が義父、比布禮(多遅麻)は纏向から仲国(曲浦)、そして、畿内に遣って来た。

尾綱根は三皇子に仕え、すなわち、三皇子大臣だった。それが、高木之入日賣の子の大中日子と中日賣の子の大雀と弟日賣の子の宇遲能和紀郎子(?若沼毛二俣)なのだろう。そして、その皇子達が尾治弟彦・宇遲能和紀郎子、尾治針名根・大中日子、意乎巳大臣・大雀である。

高穴穂宮朝は景行・成務・神功(仲哀含む)と3朝の間の政権で、膽咋大臣(五百木・兄比賣の家系)、武内大臣(若帯日子・仲比賣の家系)、比布禮(倭建・弟比賣の家系)の大臣が太子の名を負ったと記述される三柱の天皇だった。

2025年3月19日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話21 皇太弟と皇太子

  垂仁朝は纏向と師木の王朝があるため、師木水垣宮での名前と師木玉垣宮、葛城珠城宮での名があった。宗教上の天皇・大連・足尼ならば、史書を記述した王朝にとっては一王朝となる。しかし、統治上の実力者の大臣の史書は同時に3大臣が存在するので、最大、3柱の天皇の名前が出現する。そのため、若帶日子と倭建、五百木之入日子の三王は、太子と呼ばれた。そして、それを挟むように大中日子が存在し、大帯日子と帯中日子、若帶日子という天皇が存在した。大中日子は分裂の始まりと終わりなのかもしれない。

須賣伊呂大中日子(十市根)の娘の迦具漏比賣は大江を生み、『日本書紀』「彦人大兄之女大中姫」とあるように、大江が伊那毘能若郎女の娘の庶妹銀王に婿入りして、大中比賣を生んでいる。大中比賣は仲哀の妃とされていて、仲哀の崩後、多遅麻が大連になっている。多遅麻は武諸遇の子なので、大中比賣の娘婿に当たり、多遅麻は纏向日代宮大連(天皇)、妃は五十琴彦の娘の安媛と記述される。

すなわち、大中比賣の夫は五十琴彦、娘が五十琴姫、婿の多遅麻(五十功彦)と考えられる。多遅麻は纏向宮大連で神功元年、『舊事本紀』では202年の即位、五十琴彦の娘の多遅麻の妃の安媛が神功皇后世代である。神功三年、間違いの日干支の春正月丙戌朔戊子、纏向宮は崩壊し、五十琴宿祢が磐余若櫻宮に朝廷を開いた。纏向宮は240年頃まであったと炭素同位体で結論がでており、遷都の正しい日干支の正月丙戌朔の日干支があったのは234年で、符合する。

そして、杙俣長日子の孫の須賣伊呂大中日子、叔母が息長眞若中比賣なので、その子の若沼毛二俣と同世代なのだから、額田大中日子の可能性が高い。当然、宇遲能和紀郎子は皇太子なのだから、額田大中日子は皇太弟である。