2018年8月1日水曜日

最終兵器の聖典 神武天皇2

 『古事記』や『先代旧事本紀』は宮崎県から福岡県に戻って大和に向かっていることに違和感を持ち、実際は、共通の安芸が出発地で「国史」である『日本書紀』に合わせたか、史書作成時の王の指示で辻褄合わせで付け加えられたと神話内容から理解した。
「火火出見」の名前は先々代の「兄火闌降命」の分家の名前の襲名で、王では無いので彦という役職を冠して父「天津日高日子波限建鵜葺草不葺合」の分家、本家なら新しい土地を目指す必要が無いので分家が「火火出見」の宮に婿入りして襲名したのだろう。
そして、東征の内容はそれほど違いが無く、皇后の違いが際立って、『日本書紀』は「事代主神之大女也」と事代主の家系、『古事記』は「美和之大物主神」と大物主の家系、『先代旧事本紀』は「磐余彦尊都橿原宮初即皇位号日元年尊皇妃姫韛五十鈴姫命立爲皇后則大三輪大神女」と三輪神の家系なのだ。
父親が違って姫の名前だけ同じなのは奇妙で、『出雲風土記』の国引き神話を隠岐の島から持ってきたように、韛五十鈴姫の説話を其々の史書が持ってきて内容を一部変更したのだろう。
日本では神様もいくつかの名前を持っているので、誰も気にも留めないが、大切に信じる神様の名が違うということは、お頼みする神様を呼んだつもりでも、神様はあまりにも名前が多すぎて自分が呼ばれたかわからなくなってしまいそうで、非常に違和感を感じた。
本来、自分達が崇拝する神様の名前は1つで、しかも、名前すら必要が無く、唯の私の「神」で、多くの氏族が集まったので名前で区別して合祀され、神にも上下関係が発生して「大神」が一番偉い神様となったのである。
そして、下位の合祀された神は次第に亦の名前だけ残り上位の神と同一とされるようになり、これが、神武天皇の誕生で国を統合するとともに神様も統合したのであり、そして、下位の神も単独の祭祀を許し、序列のみ、「一宮・二宮・三宮」と格式で融和した。
従って、それぞれの神武天皇は別人で、『日本書紀』には名前が出現しないが、私は『古事記』の「若御毛沼」が本来の『日本書紀』の王名で『古事記』の王名が「豊御毛沼」と一時考えた。
それは、国史である『日本書紀』の王を先祖とする王が最終的に日本の王となったと考え、神名の「豊」を冠する神が下位に記述されているからだ。
しかし、いくら何でも自王朝の初代王の名前を消してしまうことは無いと考えなおし「火火出見」が『日本書紀』の王で「火火出見」が「事代主」の支配する土地で建国、『古事記』は「若御毛沼」が大物主とともに「大三輪」の支配する土地で建国、「豊御毛沼」が「大物主」の支配する土地の豊国で建国、『先代旧事本紀』は「狭野」が「大三輪」の支配する土地畿内で建国し、後の崇神天皇時に「意富多ゝ泥古命、為神主而、於御諸山拝祭意富美和之大神前」と三輪神を祀っていて、大和は本来大物主を祀ってはいないことから、『古事記』の神武天皇は大和ではなく豊国で建国したことが解る。
そして、建国の地は、福岡県の筑紫の芥屋の大門と篠栗及び豊の京都郡に太祖神社が残っていて、初代の王を祀る神社にふさわしく、勿論大和にも太祖神社とは呼ばないが神武天皇を祀っている神社がある。
すなわち、神武天皇の皇后が同じ名前ということは、王名や皇后名を信頼してはいけない、ここでは「韛五十鈴姫」「富登多多良伊須須岐比売」は有名な韛五十鈴姫の説話を借りてきた名前で本来はそれぞれ皇后の氏名は違う、そして、王名も皇太子名も違うということを、複数の人物が隠れていることを忘れてはならない。

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